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御言葉を行う

説教要旨(7月8日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 1:22-27
伝道師 新佐依子

 御言葉を聞くとき、不思議なくらい「これは私に言ってくれているのだ」と感じることがあります。それは、御言葉というものが、今生きてここにおられるイエス様がこの《私》に向かって語りかけて下さっているものであることの証しです。イエス様は、この《私》の人生をご自分のものとして生きるために、世に来てくださいました。聖書には、イエス様が「憐れに思われた」と言われているところがいくつかありますが、この「憐れに思う」というのは、「イエス様ご自身の魂が底の底まで揺さぶられるように感じる」というような意味です。イエス様は、私たちの人生を、ご自分の魂が底の底まで揺さぶられるような体験として生きて下さっています。このイエス様と、私たちは御言葉を通して出会うのです。
 青野太潮先生という神学者は、私たちが出会うイエス様というのは、今も十字架につけられたまま苦しんでおられるお姿のイエス様だと言っておられます。イエス様は天の玉座にどっかりと座っておられるのではなく、人生に悩み苦しむ私たちの叫びを今十字架の上で叫んでおられます。そして、どう祈ればいいのかさえ分からない私たちのために、神様に執り成して下さっているのです。
 御言葉が語られるとき、このイエス様の叫びが、「ああ、これは本当に私に言ってくれているのだ」という圧倒的な力となって《私》自身に襲いかかってきます。まるで自分のすべてがイエス様ご自身に巻き込まれていくような、そんな力です。そしてこの御言葉の力が、今度は「大丈夫だ、私が一緒にいる。行きなさい」と言って私たちをこの世で生きることへと押しだす力になるのです。この力は復活のイエス様の力です。ですからこの力に背中を押されて生きるのであれば、たとえそこに何があろうと、行き着く先は必ず神様の御国です。だから「大丈夫だ、行きなさい」なのです。
 《私》の人生を生きて下さっているイエス様の力に押されて世に出ていくことは、この世でイエス様の命を生きることに招かれているということでもあります。イエス様は神様なしの歪んだ世界に自ら出向いていかれました。ヤコブ1:27には「みなしごややもめ」という言葉が出てきていますが、そういう弱い人や貧しい人がひしめき合って呻いている世界に、イエス様ご自身が弱く貧しい者として出向いていかれたのです。このイエス様の命に、今私たちも招かれています。私たちは「大丈夫だ、行きなさい」と言って、涙や矛盾や孤独に満ちた世界に向けて背中を押されています。自らもこの世で呻きながら生きる者として、呻く人たちと共に生きなさいと言われているのです。
 旧約時代にエレミヤという人がいます。エレミヤは神様から「大丈夫だ、私が一緒にいる。行きなさい」と言われて世の只中に出ていった人でした。ちょうど私たちが今イエス様から背中を押されているのと同じです。エレミヤが出ていった先には、神様なしに生きる人々が溢れていました。そして、彼を通して語られた「エジプトに行ってはならない」という御言葉に聞き従わずに多くの人々がエジプトに行ってしまいました。しかしエレミヤは「エジプトに行ってはならない」という神様の言葉を語りながらも人々と共にエジプトに行き、神に背く人々と最後まで共にあり続けました。
 私は、これこそが私たちの招かれている生き方なのではないかと思います。私たちは「大丈夫だ、行きなさい」という御言葉の力に押されて、神様なしに生きる歪んだ世の只中で、自らも呻く者として、神様なしに呻く人々と共にあり続けるようにと招かれています。それは神様なしに生きる世界に染まる(27)ことではありません。御言葉の力に押されて行くその先は神様の御国であることを知る者として、神なき世に遣わされて生きるのです。これこそが「父である神の御前に清く汚れのない信心」(27)であり、そのように生きることによって、私たちは「幸せ」(25)になるのです。
 






更新情報

2018.8.20

8月12日朝礼拝「新しい人を着る」

2018.8.13

8月5日朝礼拝「成熟した人とされる」

2018.8.6

7月29日朝礼拝「一人ひとりへの賜物」

「路の光」追加。

「教会規則」再掲載。

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