ホーム | 説教 | 説教(2018年度) | 霊による賛歌

霊による賛歌

説教要旨(9月23日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 5:15-20
牧師 藤盛勇紀

 「細かく気を配って歩みなさい」とありますが、気配り屋になれということではありません。いかに歩むか、「歩み方」に気を遣えということです。キリスト者固有の歩み方があるからです。それで、「主の御心が何であるかを悟りなさい」というのですが、「悟る」というのは、主の御心が私の心の内に一つとなってストンと落ちる、というイメージの言葉です。「ああ主よ、そうですか」と。この悟り・理解は、人の理性だけでは生じません。主の御心と触れ合うことだからです。8節で「あなた方は、…今は主に結ばれて光となっています」と言われていたように、私はすでに主に結ばれて「新しい人」となっている、と理解することなのです。イエス様も「あなた方は世の光だ」と言われました。「私はすでに光」、このことが分かって歩むことだというのです。ところが、それをキリスト者自身がなかなか悟らず理解せず、霊的な潤いを失って、干からびているのではないでしょうか。
 「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。当時の教会の実際問題も視野にあったかもしれませんが、パウロが言いたいことは、いつも後半なのです。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。
 酒に酔うことがなかったとしても、「霊に満たされる」ことを知らなければ何にもなりません。あなたは霊に満たされて歩んでいるか、そこに気を配れと言うのです。しかし、「霊に満たされて」と聞くと、とたんに分かりにくいと思ってしまう。すると、パウロがここで言うことも分かりません。「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」と聞いても、「どうして、いつも感謝できるのか」と思う。実は、密かに思っているのです、「そんなこと、むりだろう」と。
 「霊に満たされて」とは、パウロがよく使う表現で言えば、「肉に従う」のでなく、「霊に従う」ことです。すでに主は聖霊によって私たちの内におられますし、私たちの間に神の国はある、と主は言われました。しかし、天と地がつながって重なっているという現実が、理解しにくいのでしょう。
 一つのたとえですが、OHPシートのように、何枚かの透明なシートに文字や絵を書いて、それを重ね合わせてスクリーンに一つの映像を写すことに似ています。「肉に従う」というのは、この世の法則や価値観だけで全てを見る生き方です。「この世」という1枚の層、平面しかないのです。しかし「霊による」別の層があります。私たちは、主の霊に示されて自分の内の霊の層に映ったものを、信仰の目で見ているはずです。それを理性・知性で解釈して、主の御言葉と照らして新しい現実を見るのです。
 見えるものは過ぎ去ります。私たちは地に属しているのでなく、天に属する者なのですから、主の御言葉に従って、生きる次元を変えるのです。地べたをはいつくばるだけでなく、垂直次元で、天と地を行き来する。これが分かると、どこでも感謝と喜びと楽しみが分かり、歌となります。旧約の詩人も語っているように、感謝をささげることは楽しいのです(詩92編)。
 「幸いなるかな」で始まる詩編は、人生の闇も苦難も惨めさも、何もかもさらけ出しています。ダビデ王も、あらいざらい主の前に申し述べています。しかし最後は、「主を賛美せよ、ハレルヤ」。何もかも主の前にさらせば賛美が出てくる。あらゆる地上の問題は、すでに天においては処理済み、解決済だと分かるからです。私はすでに天の祝福で満たされている、あとは自分の人生の中で現れてくると分かる。だから、忍耐と希望と楽しみが一つになるのです。