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成熟した人とされる

説教要旨(8月5日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 4:12-16
牧師 藤盛勇紀

 「奉仕」という言葉は、教会用語と言えるほどに教会の本質的な業で、最近はギリシア語のまま「ディアコニア」と言われることも多くなりました。しかし、奉仕というのは、何のための奉仕なのでしょうか?
 ここでは、「キリストの体を造り上げ」るのだとあります。教会はキリストの体ですから、「教会を建て上げる」と言ってもよいのですが、具体的なイメージになり過ぎます。教会とは建物のことではありません。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」と告白しているように、神の愛と恵みによってキリストに結ばれ、キリストの血による赦しを得て、神の子とされた私たちのことです。ですから、キリストの体を造り上げるとは、私たち自身が、神の恵みによって生かされ、用いられ、歩んでいくことに他なりません。
 そのために、私たち「一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7)と言うのです。「一人一人」にです。他の人がどうかは問題ではありません。主は私たち一人一人に、「あなたは、私に従いなさい」と言われます。この「召し」は、「一人一人」にですから、他の人はどうすることもできません。あなたと主との関係、主との命の交わり、それが一人一人に成り立っているのが教会です。
 ホスピスの草分けの一人、柏木哲夫さんが言っていることですが、私たち人間には、どれだけ共感し合っても、決して分かり合えない深みがあります。人間は根本的に「一人」です。それが分かっていないと、「なんで分かってくれないの」とつぶやき、「なによあの人は」と不平不満となり、失望することになります。人間は分かり合えない、と分かっていれば、ある程度分かってもらえたとしたら、「ありがとう」となります。
 人間は、どうしたって担えない、分かり合えない深みがあるのですが、その人の存在そのものを背負うことのできるお方がおられます。それは真の神、主なる神です。柏木さんは、「そのようなお方がおられる」ということを伝えることならば、「できるかも知れない」と言うのです。
 主なる神は生きて働いておられる。私たち教会の働きは、このお方によって生かされている事実を、私たち自身が生きて示すことです。そのために、一人一人にキリストの賜物、恵みの務めが与えられています。
 13~16節に、キリストの体がどのように成長し、造り上げられていくかが語られていますが、ここでの事実上の主語は「キリスト」です。キリストの体を造り上げていくのは私たちではなく、キリストご自身です。ここに記されている言葉は、努力目標ではなく、「約束」なのです。「ついには、…成熟した人間になる」とありますが、「成熟した人間」という言葉は単数で、「完成した一人の人」「成熟した男」とも訳せます。何のことかと言えば、やはり一人の主、キリストのことだと言ってよいのです。キリストに結ばれている私たちは、「キリストご自身になる」と言えるほどに、キリストと「一つ」なのです。キリストが私の内におられ、私はキリストの内にいる。それほどに、キリストは私という存在を根底から背負って下さっていて、私の命はキリストの命です。そのように、私たち「一人一人が」キリストに結ばれて、私たちは頭なるキリストの体として「一つ」とされている。これが、キリストの体なる教会です。
 教会を建て上げることは、私たち一人一人が主の愛と憐れみと恵みに浸かって、主の命を生きていることによります。奉仕も、そこから考えるのです。キリストが生かし、用いて下さるのですから、誰でもどんな人でも、主に仕える者、主の証し人です。その私たち自身が、キリストが満ちあふれる豊かさそのものとなって、愛によって(愛の内に)造り上げられるのです。