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以前は遠く、今は近い

説教要旨(5月6日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 2:11-22
牧師 藤盛勇紀

 「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」と言われています。異邦人とは、ユダヤ人ではない者、イスラエルの民に属さない者、つまり私たちのことです。異邦人は神の律法を持たないので、「約束を含む契約と関係なく」「割礼」というしるしも受けず、「希望を持たず、まことの神を知らずに生きていました」と言うのです。
 パウロがここで言う希望は、いつでもどこでも、どんな時にでも誰にとっても、この希望によって生きられる、真の希望です。この希望がないということは、真の神を知らずに生きることと関係します。真の神を知らない人間は、様々な神々を生み出します。それは、天をまさぐるように何かにすがらずには生きられない、「希望を持たない」姿を現しているのではないでしょうか。
 私たち異邦人は、そのようなものであったと。ただ、ユダヤ人は律法と約束を与えられていながら、それが彼らの真の命になっていなかったという点からすれば、ユダヤ人も異邦人と同じだと言えます。
 それを、「あなたがたは、以前は遠く離れていた」と言うのです。神から遠く離れていた、「罪」の状態です。神を知らず、神を捨て、神を無視し、神無しに生きていた。そうした絶望的な「遠さ」です。
 しかし「心に留めよ」、あなたがたは「以前は」そうだった。しかし「今や」と言うのです。原文では「しかし、今や」という言葉が先頭です。この言い方と似た表現はパウロは何度も使っていますが、たとえばローマ書3:21です。「義人なし。一人だになし」という有名な詩編の言葉を引用し、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが、全ての人間は神に背を向けている。義人など一人もいない。その現実を語って、「ところが、今や」、人間の義ではなく「神の義」が律法とは関係なく、つまり人間の行いと無関係に示され、「神の恵みにより無償で義とされる」のだと、それはただキリストの贖いの業を通して」だと言います。
 ここでは、「キリストの血によって」と言います。神に背反していた私たちは、ただキリストの十字架の血によって義とされた。それによって、絶望的に遠かった私たちは神に近い者、神の子としていただいたのだ、と。このことを忘れるな、というのです。
 キリストに結ばれて、私たちは「近い者」。神と「よそよそしい」関係ではない。恐れて近づけない者でもない。神に近づけない私たちに、神の方が近づき、私たちを御自分のものとし、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子としてくださったのです。
 神は私たちの父なのですから、その懐に飛び込んでよいのです。ヘブライ人への手紙も、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と言います(4:16)。いつでもどこででも、大胆に神の御座に近づけます。私たちはキリストと「共に天の王座」にいるのだ、とパウロは言いました。だから、「時宜にかなった助けを」いただくのです。
 この「近さ」を知るのが信仰です。私たちはこのような近さを、人との間には持っていません。親子でも夫婦でも何らかの距離があります。しかし、神は私たちに最も近いお方です。人には絶対に言えないことも、神に対しては全て打ち明けることができます。
 神は私たちの全てを、罪も汚れも全てご存知の上で、キリストの血によってそれを拭い、ご自分の懐に迎えてくださいました。ただ迎えただけでなく、あの放蕩息子に父がしたように、あらゆる良いもので装い、祝宴を催し、もてなしてくださるのです。
 「今や」、これほどまでに近い者とされたのです。このような私たちとしてくださったキリストの血がある限り、私たちは何のためらいもなく、神の子として大胆に生きてよいのです。
 
 






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