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神の愛の怒り

説教要旨(4月7日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 3:1-8
牧師 藤盛勇紀

 カトリックの精神科医だった土居健郎さんは、日本人の精神構造を「甘え」というキーワードで示しました。その「甘え」とは何か、一言で言うなら、「他者を持たない」こと。一般的にも「愛と甘やかすことは違う」と言われますが、キリスト者もその点を混同することがあります。信仰を「私の心の問題、自分の心一つ」と思ったり、「神はこうなさるはずだ」と、自分の思い通りにしてくれない神をいぶかしく思ったり。
 そんな人間の思い違いや勝手なひとり決めの問題を捉えながら、パウロは言います、「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない」。「人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」。
 「決してそうではない」。パウロがよく使う言葉ですが、そそり立つ壁のような、非常に強い否定、拒否です。この神の厳しい拒否の前で、独り決めする人間の《ひっくり返った姿》が浮き彫りにされます。
 パウロはあえて「人間の論法に従って言いますが」と言います。人間は屁理屈をこねます。「愛の神が怒りを発するのはおかしい」と口をとんがらせ、一応筋の通った論法でご託を並べるのです。「善が生じるために悪をしよう」、これと同じ屁理屈は6章にも出てきます。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)という福音の真理を人は逆手に取って言うのです。「いいことを聞いた。ならば、恵みが増すようにと罪の中にとどまろうではか」と。そのように、神の恵みを逆手に取って、まさに神と人を逆転させてしまう。
 手の付けようの無い人間の身勝手な理屈、独りよがりの人間の論法に対して、いったいどういう言葉で向かうことができるか。学者には学問的な手続きがありますが、信仰はそうは行きません。福音の真理は学問的真理ではないからです。では、聖書は何と言うか。「決してそうではない」。「人間の論法」に対し、神はただ拒否なさるのです。
 でも、人間の罪を神はお赦しになるのではないか? たしかにそうです。罪人が赦されるという聖書の福音は、鎌倉仏教とよく似ていると言われます。とくに「悪人正機説」。善人でさえ往生を遂げる。ならば憐れまれるべき悪人はなおさらではないか。これはキリストの福音の真理と同じだと言われることがありますが、もちろん違います。悪人正機でも、聖書の福音を聞いても、開き直る人間はどうしたって現れます。たしかにそこは、同じように思われます。
 しかし問題は、理屈で開き直る人間に対して、厳しく拒絶し怒りを発してくれる「他者」なる神がいるかどうか、そのような生ける神がいるかどうか、なのです。仏教には、人間に向き合い立ちはだかる生ける神はいない。だから「自分の心次第」です。しかし神は、「決してそうではない」と厳しく拒絶し、私たちに臨み、人生に乗り込んで来る。本気で向き合われるのです。
 人間の論理や理屈で斜(はす)に構えていたら、生ける神との出会いなどありません。神は生きておられます。私たちがどれほど真剣で誠実でも「ダメだ」と拒絶される。神は生きておられるから、独り決めにはできない。そうした厳しさがありますが、それは真の親に育てられる子どもにとっての厳しさのようなものです。
 最後のところ、命に関わることは、理屈では間に合わない。「頭ごなし」しかないのです。神は私たちを子として愛を注ぎ尽くされました。出し惜しみがないのです。この恵みから離れてしまう者には、もう他の手はない。だから「決してそうではない」と、愛から出た怒りを突きつけるのです。この神の断固とした厳しさは、あなたを決して離さない!という神の愛なのです。