ホーム | 説教 | 説教(2019年度) | 父祖アブラハム

父祖アブラハム

説教要旨(6月2日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 4:1-12
牧師 藤盛勇紀

 「肉によるわたしたちの先祖アブラハム」とあります。パウロもユダヤ人ですが、ユダヤ人は血肉のルーツを辿ればアブラハムに遡れると知っていますし、それを誇りとしていました。ところが、アブラハム自身は「肉による」生き方をしませんでした。「肉によって」生きるのでなく、「肉によって」自分を知るのでもなく、「神によって」、霊によって、自分は何者であるかを知り、神との関係に生きた。聖書はそれを示しています。
 《肉によって決定される私》ではなく、《生ける神によって知られている私》、この神との関係に生かされている幸いな私がある。それをリアルに実体として受け止めているのが信仰です。だから、アブラハムは「信仰の父」とも呼ばれるのです。
 神によって生きる、そういう命がある。アブラハムはそこに生きました。神によって「義」とされていたのです。彼が立派な行いをしたからではありません。「アブラハムが義と認められた」、それは「どのようにして」か。「割礼を受けてからですか」。いや、神との契約の印である割礼を受ける前に、すでに義とされていた。その「証しとして、割礼の印を受けたのです」。
 私たちの義、救いは、血肉と何の関係もありません。行いによっても決定されません。その不思議な恵みについて語る不思議な言葉が5節。「不信心な者を義とされる方」。神は「不信心な者を」義となさる方だというのです。
 パウロ自身、キリストを徹底的に迫害していました。キリストを侮辱し、否定し、キリストを信じる者を殺しさえしていた。そのさ中、彼はキリストに出会ってしまった。まさに思いがけず、生けるキリストに激突してしまったのです。
 不信仰な私たちを愛し、憐れみ、義としてくださるお方、生きておられるこの方を、私たちは信頼するのです。この方が私に触れてこられるから、私は応えるのです。アブラハムはそのように生きた人でした。
 ところが、アブラハムに血肉でつながるユダヤ人は、別ものになってしまいました。永遠の命なるお方に触れて命を得るのでなく、聖書を研究し、その行いによって命を得ようとしてる。イエス様は、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と言われました。
 「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています」とあります。アブラハムは、「不信心な者をも義とされる方を信じ」て生きました。「働きがなくても、その信仰が義と認められます」。《働きがなくても!》。アブラハムは、この不思議な神の恵みによって生きた。なのに子孫のユダヤ人は、《自分の働きに対する当然の報酬》を要求するように生きている。「これをしたのだから」「こういう行いをしたのだから」、救われると。これは分かりやすい、自然な人間の考え方です。
 しかしそれは、アブラハムの生き方とは全く異なる生き方です。人は自分が何者なのかを知ろうとしてルーツを遡りますが、どこまで遡るのか。何が分かるというのか。結局は由来不明となるだけです。
 信仰の父アブラハムは、血肉によって生きることの空しさ無意味さを示す存在です。人は肉によって生きるものでなく、自然の中に根拠を持つのでなく、神によって生きるものだからです。イエス様は言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。新たに生まれるとは、「霊から生まれる」こと、神によって、神の命に新生することです。アブラハムを私たちの父祖として生きることは、「私に命を与え、生かしてくださるのは、私の主なる神である」と告白して生きることです。