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起きて神を呼べ

説教要旨(4月28日 朝礼拝より)
ヨナ書 1:1-16
伝道師 杉山悠世

 神さまから、ニネべに行くようにとの命がくだりますが、ヨナは逃げ出してしまいます。主から逃れるという行為は、神さまとの関係を拒絶する事を意味します。そして、タルシシュ行きの船に乗り込みます。当時、西の最果てと考えられていた場所です。一方で、神さまがヨナに示したニネべは東の果て、当時の大国、アッシリアの首都です。アッシリアは、イスラエルの人々を苦しめた敵国でした。
 預言は誰にでも聞き入れやすい言葉ではありません。神の言葉を誤りなく伝える為に神の怒りをそのまま伝えなければならないのです。預言者の忠告が受け入れられる事もありますが、多くの場合預言者は迫害され、死に至る事もしばしばでした。忠告の相手は民衆も含まれました。預言者社会を敵に回す孤独な任務を背負っていました。そう思うと、ヨナが神さまから逃れた事も、簡単に攻められないかもしれません。
 ヨナは、人々と荷物に紛れて、船底で眠っていました。船を嵐が襲っても起きない様子は、図々しいようにも思えます。ヨナのせいで、乗り合わせた客も船員も危機的状況でした。他方で、眠るという行為は神さまに対するストライキだったのかもしれません。
 このようなヨナの姿は私達に不信仰の意味を示しています。不信仰とは、神を信じない事ではなく、神に背く事です。ヨナは神さまを信じていなかったわけではありません。主なる神が生きておられる神であることを知っていたからこそ、神の言葉に反抗しようとしたのです。「起きて神を呼べ」とは、「起きてあなたの神に祈りなさい」という事です。そのような言葉が、異邦人の口を通してヨナに語られた事に重要な意味が込められています。船に乗り合わせた人々が異邦人ばかりだった事は明らかです。そんな中でヨナは異邦人から神に立ち返るようにと、それ以外に道がない事を思い知らされるのです。もちろん、まだ誰も、ヨナが嵐の原因である事を知りません。
 ところで、ある牧師は説教の中で、「神の怒りは、怒りとしてあらわされるためではなく、人間を悔い改めさせるために用いられるものである」とおっしゃいました。神の怒りによって起こされた嵐は、ヨナが断絶した関係を神さまから回復するためでした。「私を離れて生きる事は不可能なことなのだ」と、示される神さまの愛だったのです。異教の神を信じていた人々が、ヨナによって嵐に見舞われたのですが、それだけではなくヨナと関わった故に、主なる神を恐れ敬うようになりました。しかし、ヨナは心を閉ざしたままでした。主なる神の恵みがイスラエルの民以外に向けられる事に不満を持ち、神さまの示した方角とは正反対を目指しました。どんなにヨナが抵抗しても、神さまは全ての人を悔い改めと救いに導かれるのです。その為に、ヨナを必要とされるのです。ヨナもまた神さまの救いへ招かれた一人でした。
 ヨナは神に逆らったにも関らず、そのヨナを伝道のために用いられました。この後、ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日間を魚の体内で過ごします。それはまさに、自ら十字架の死によって、全ての人々を永遠の命に至る道へと招かれたイエス・キリストの姿を想起させます。
 ヨナ書において、神の寛容さはニネべの人々だけではなくヨナに対しても示されます。その愛は御子の十字架の死と復活によって私たちにも示されました。神さまの愛を推し量る事も拒む事もできません。理解できない仕方で、神さまの愛が示される時、そのために用いられる時、私達は素直にその声に従う事ができないかもしれません。しかし、神さま自ら、関係を回復してくださる過程をも、私達の信仰の成長の糧としてくださるのです。