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きっぱりと捨てよう

説教要旨(9月29日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 7:1-6
牧師 藤盛勇紀

 「断捨離」を決意したが、なかなか断ち切れない。それは、「捨てる」方に力点を置くからではないでしょうか。キリスト者は、《全く新しいものを与えられた者》。だから、古いものにしがみつく必要がなくなりました。《新しいものが現れた》が故に、過去への執着から自由なのです。
 パウロが言うのもそこです。パウロはこれまで、アダムとキリストを対比させて、人間を二重に、二つの在り方で示してきました。「新しい命」の故に、命は二重、死もまた二重。人間は全てアダムにつながる者として死ぬ。しかし、キリストに結ばれて、新しい命に移っている。だから、人間はアダムからキリストへと乗り換えるのだと。
 そこでパウロは、「夫と死に別れた女」のたとえを語ります。ある女が再婚する。その再婚が、夫が生きているうちだとしたら、その女は「姦通の女」と呼ばれる。しかし、夫が死んでいるなら、その女は自由だと。姦通の女とされるか、幸いな新たな結婚生活を送るか、天地の差です。何が違うのかと言えば、前の夫と《死別したかどうか》。
 前の夫とは、「律法」に縛られた生き方であり《古い自分》のことでもあります。ユダヤ人にとっては、神の律法を行うことが救いにつながっていました。初代のキリスト者たちの多くはユダヤ人、ユダヤ教徒です。律法によって救われるのかどうかは、極めて重大で深刻な問題でした。「キリストの十字架の恵みによって救われた」「キリストに結ばれて新しい命を与えられた」と言いながら、その一方で、「律法を守らないと救われないのではないか」と不安になる。過去に後ろ髪引かれ、前にあるキリストの恵みを見損なってしまう。
 異邦人であり現代人である私たちキリスト者も、「ただキリストの恵みによって救われた」と言いながら、その生き方はどうかと言えば、「あれをしなければ」「こうでなければ」となっていないでしょうか。何かにしがみ付き囚われる生き方。つまりアダムのまま。見かけも行いもクリスチャンらしくても、清く正しい「罪の奴隷」。それは、新しいものを実は手にしていないからです。なのに、捨てようと頑張るから、悲愴感が漂うのです。
 パウロは、「ところで、兄弟たち」と親愛をもって呼びかけます。「何としても古い生き方を捨てよ」と悲壮な決意を迫るのではなく、私たちにはすでに、とっておきの恵みがあるではないかというのです。はっきりと知ったはずのその恵みを、はっきりと確認しようじゃないかと。
 「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。あなた方は、かつては何かに支配される奴隷だったが、今はキリストのものとされている。この事実は、神の霊ご自身があなたの魂に直接示してくださっているではないか。
 私たちが洗礼によって与るのは、まさにこの恵みの命なのです。神の霊が私たちに明らかに示してくださる事実、それで私たちははっきりと自分がキリストに結ばれて神の子であることを知ります。だから神を「アッバ、父よ」と呼ぶのです(8:15)。
 私はすでに主のもの、神の子。そうであれば、決して他のものにはならないし、「やっぱりあれも大事」「やっぱりこれもないと生きられない」とはなりません。
 私たちはキリストに結ばれてすでに死んだのです。「どう捨てるか」ではなく、キリストにある新しい命を喜ぶのです。その生活は必然的に、物に捕らわれず、人の思いに縛られない生き方となります。「主を喜びとすることこそ、あなたの力だ」と聖書にあります。主が私を通して何を現してくださるのか、楽しみに生きたいと思います。