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賛美の湧き出る泉

説教要旨(7月14日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 3:1-12
伝道師 新佐依子

 今日の箇所は、教師に対する戒めから始まっています。それは、教師は他の人たちよりも言葉で語る機会が多いからです。そしてヤコブ書が言う通り、私たちは必ずと言っていいほど、言葉で過ちを犯すからです。だから教師は気をつけろというわけです。しかし教師に限らず、私たちは皆、イエス様を宣べ伝えよと命じられているのですから、ヤコブ書が語る「言葉についての戒め」は私たちキリスト者全員に向けて語られているものと思っていいと思います。
 イエス様を伝えるというのは、なにも聖書やキリスト教について説明するということばかりではありません。イエス様は「命の御言葉」ですから、そのイエス様を宣べ伝えるというのは「何を語るにしても相手を生かすように語る」ということです。
 しかし、言葉というのは本当に難しいものです。私たちは人間関係の大部分を言葉によって築いていますが、それを壊すのものまた、言葉によるところが多いと思います。自分ではそんなつもりは全くなかったのに相手を傷つけてしまうこともあります。逆に、自分が誰かの言葉に傷ついたというときは、その言葉がいつまでも心に残り続けたりします。また、「あの人はこういう人だ」と言い切ってしまうとその人を裁くことになりますし、「私はこうだ」と言ってしまうと「こうでなければならない」と自分を束縛することになります。しかし、時には「あの人はこうだ」「私はこうだ」とはっきり口にする必要がある場合もあります。だからこそ、言葉は難しいのです。
 こういった言葉の困難というのは、ある意味で仕方のないものだといえます。なぜなら私たちは、自分の人生の範囲内でしか語ることができないし、自分の人生の範囲内でしか聞いたことを解釈できないからです。例えば、これまで大した病気はしたことがないという人が健康について語るのと、今まさに大きな病のさなかにあるという人が語るのとでは、やはり違います。そういう違いが、誤解やすれ違いを生み出してしまうのは、どうしても避けられないのです。
 しかし、だから仕方がないと言って済ませるわけにはいきません。ヤコブ書は「神を賛美する口から人を呪う言葉が出てくるようなことがあってはならない」と言っています。これは「してはならない」ということではなく、「そんなことがあるはずがないじゃないか」という意味です。なぜなら、賛美と呪いでは出所(でどころ)が違うからです。
 「呪い」というと何やら魔術的な感じがするかもしれませんが、聖書のいう「呪い」は「神様の祝福がない」ということです。ですから、神様なしに自分の思いだけで語ることはすべて「呪い」です。賛美か呪いかというのは、神様に聞き従って語るか、自分の基準で語るか、という違いなのです。
 私たちは、自然のままの自分では、人を生かす言葉を語ることはできません。ヤコブ書は「舌は不義の世界だ」と言っています。先ほども言いましたように、私たちはどうしても、自分の人生の範囲内でしか語れませんから、私たちの言葉はどうしても自分中心です。だから「不義」なのです。
 しかし、イエス様に結ばれて神様のものとされた私たちは、もはや自然のままの人間ではありません。イエス様は「霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ3:6)とおっしゃいました。私たちはすでに、神様の祝福のうちにあるものとされているのです。
 そのことに全幅の信頼を置いて語るとき、私たちの言葉は神様を賛美する言葉として相手に届きます。そして神様は、私たちのその言葉を通して、聞く人の中でご自分を現して下さいます。それがその人を生かす言葉、イエス様を伝える言葉になるのです。
 私たちの言葉は、全く不完全なものにすぎません。しかし、私たちを捕らえて下さっているイエス様が、「私を宣べ伝えよ」と言っておられます。そのことに全幅の信頼を置いて語るとき、私たちの言葉を通して、イエス様ご自身がその人を生かしてくださるのです。