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価を払わずに得よ

説教要旨(5月26日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 3:23-31
牧師 藤盛勇紀

 不朽の名作ドラマ「大草原の小さな家」。アメリカの開拓期、着る物も十分ではない貧しい時代です。それでも日曜日には皆精一杯のお洒落をして教会に集まります。しかし、もしそれが人に見せるためだったら、嫌らしい無粋なものになってしまいます。使徒ペトロもその点を指摘していますし、旧約聖書にも「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とあります。では、内面が良ければ外面はどうでもよいと言えるかというと、そうでもありません。
 外面を飾ったり、人から評価される行いに励めば、どうしても偽善の香りが漂います。反対に、わざとラフに見せるような、一旦「偽悪」を通した偽善もあります。結局、着飾っても着崩したとしても、偽りとうさん臭さを隠しようがないのです。
 パウロはここで、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」と言います。直前の20節では、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じない」とも言いました。ところが、31節でこう言うのです。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか、決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」。
 「決してそうではない」。私たちはこういうところで間違いやすいのです。「律法を行うことによって義とされ救われるわけではない。だから律法に従うような行いはもう無駄だ。律法はもう意味がない」と。しかしパウロは、「決してそうではない」と言います。それはイエス様が言われたことと一致します。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」。
 私たちの「義」とは、神の御前にあるべきあり方であることです。では、あなたの義が、自分を律して生きることに自信を持っていた律法学者やファリサイ派に優っているか、と問われたら、とうてい無理だと思うでしょう。自分をどれほど良く装ってみたところで、神の前に私たちは丸裸です。
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」。しかし!「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。
 無償で! 驚くべきことです。神ご自身が御子の血潮で私たちの汚れを拭い、キリストを着せ、装わせてくださっている。
 ルカ福音書のあの「放蕩息子」の父は、惨めな姿でうなだれて帰ってくる息子を見つけ、自ら駈け寄り抱いて、言いました。「急いでいちばん良い服を持て来て、この子に着せなさい! 手に指輪をはめてやりなさい! 足に履物を履かせなさい!」。
 最初の人間アダムとエバは、主なる神に背反して、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづって腰に巻きました。なんとも心許ない空しい努力。ところが、この情けない罪人たちのために、なんと神自ら「皮の衣を作って着せられた」のです。他の生き物の命の犠牲を払って皮の衣を作り、着せてくださった。聖書の神はそこまでしてしまわれる、実に恐ろしいまでに憐れみに満ちた方です。
 神の前に私たちは裸。隠しようがなく、覆いようもありません。その裸の私の恥、罪の恥を、神が覆い装ってくださるのです。しかも無償で、価なしに、恵みによって。私は、この格別な装いの喜びを表したい。「中身は汚れているけれど、私の主が装ってくださったのです」と主を誇りたい。
 キリストを着た私たちは、神から与えられたキリストの義を身にまとっています。だから、私たちの義は完璧です。律法学者やファリサイ派のような、自分の努力でなんとか確立しようとする、いちじくの葉のごときペラッペラの義よりも、私たちの義は、はるかにまさる完璧な義なのです。