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聖霊の力を受けて

説教要旨(6月9日 ペンテコステ礼拝より)
使徒言行録 2:1-21
牧師 藤盛勇紀

 主イエスの弟子たちに聖霊が注がれると、彼らは突如として人々の前に出ます。そして、大胆に語り始めたペトロは、その説教の直後にこう言います。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。
 聖霊の導きを受けて神の愛と憐れみに触れるまでは、私たちは神が分かりませんでした。命の主なる神に背を向け、死と滅びに向かうのみでした。しかし、神の霊である聖霊が私たちの内に注がれるとき、私たちは神に触れられ、神の御心に触れ、私たち自身の心が神に向かって開かれて行きます。私は神によって造られた者であり、神の宝、かけがえのない神の子だと分かります。そして、神と共に生きることが喜びとなり、楽しみとなり、「たとえ死の陰の谷を行くときにも、災いも恐れません」と言えるようになる。「あなたが私と共にいてくださる」からです(詩23編)と分かるのです。いついかなる時もどんな所でも神の子として生きられる。「ああ、これが祝福なのだ」と知る。この祝福を受けるように招かれていたことが分かるのです。
 エゼキエル書にこうあります。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き…。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(36:26-28)。
 神の霊が私たちの内に与えられ、言わば神と言わば心通わせるようになります。神の霊は風であり神の息吹きです。神の息づかいが分かる親しさ、神と一つの命の交わりの中で、祝福されていることを知ることができるようになるのです。そして、命の霊である聖霊は、私たちの内で常に新たに命と力を与え続けてくださって、決して枯れることのない《命の泉》《命の源》となっていてくださいます。イエス様はサマリヤの女にこう言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。
 イエス様が十字架で死なれ、復活され、父なる神の右の座に着き栄光をお受けになって、はじめて私たちに聖霊を与えてくださいました。私たちに与えられた聖霊は、イエス様において罪人として裁かれた「イエスの霊」です。だから、聖霊は私たち罪人の恥も苦悩も、人間ゆえの限界も行き詰まりも、全てを知っておられます。
 聖霊を注ぐという主の約束は、すでに実現しました。イエス様は地上に生きる私たちにご自身の霊を注いで、命の交わりを保ってくださっています。そして、それが真実であることは「見聞き」されることなのです。霊は風。風は見えなくても音を立て、木々の葉を揺らし、頬をなでます。聖霊が降ると力を受けます。力を受ければ、その力による働きが分かるのです。
 目に見えずイメージもしにくい聖霊は、ご自身を私たちに現されず主イエスを私たちの内に証しし示してくださる方です。私たちが求めさえすれば、今日聖霊を受けることができます。エゼキエル書の約束も、今日私たちが体験できる祝福であり、私たちが生涯にわたって味わって行く祝福なのです。
 聖霊は石の心を取り除き、柔らかなみずみずしい命に満ちた肉の心を与えてくださいます。この命の霊を注がれたならば、「主は永遠に私と共に生きてくださるので、私が生きることは主が生きること」と言えるようになり、聖霊によって大胆に生けるイエスを証しするのです。