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イエスの血による贖い

説教要旨(5月19日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 3:23-26
牧師 藤盛勇紀

 十数年前、「パッション」という映画が話題になりました。イエス様の最後の一日、受難の場面をリアルに描いたものですが、非常に深く印象に残った場面があります。イエス様が総督ピラトの官邸でむち打たれる場面です。当時の鞭はただの皮ではなく、鞭一つで肉が裂かれ、血が飛び散り、鞭を打つ者は全身に返り血を浴びます。
 印象深かったのは、イエス様がその場から連れて行かれた後です。母マリアが、石畳の上に流されたおびただしい血を白い布で拭き取るのです。一緒にいたマグダラのマリアも、頭に被っていた布を解いて、流された血を黙々と丹念に拭い取ります。
 そこで思い出したのは、アベルの「血が叫んでいる」(創世記4:10)という言葉と、「アベルの血よりも立派に語る注がれたイエスの血」(ヘブライ12:24)という言葉です。血というのは、何かを激しく訴える言葉を持っているのではないでしょうか。
 流された血が叫びであり、何かを激しく語っているとすれば、キリストの血は、どんな言葉で、何を叫ぶのでしょうか。イエス様は、十字架の上で言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。この血の叫びは、罪人のための言葉です。
 神の御子を十字架につけ、その肉を裂き、血を流す。それを行っている人間は「自分が何をしているのか知らない」からなのだと言われるのです。自分たちが殺そうとしているそのお方が誰なのかを知らない。自分たちが文字通り血祭りに上げているそのお方が、私たちを愛してやまない神の独り子だった。そのことを人間は知らない。知らないだけでなく、激しく罵り、あざ笑い、唾を吐きかけ、踏みにじるのです。
 「彼らは自分が何をしているのか、知らないのです」。この叫びは、人間の無知を神に訴えているのではなく、執り成しです。「自分が何をしているのか、もしも知っていたなら、父よ、彼らはこんなことはしないのです。彼らをお赦しください」と。
 しかし人間は知らないし、知ろうともしない。仮に、自分の手で神を殺したと知ったら、どうして生きていられるでしょうか。命の主なる神を捨てるとは、どんなことがあってもあなたを見捨てず、命へ導かれる存在を失うことです。だから、神と切れた人間は、開き直ってしまうのです。
 そんな人間が、神に立ち帰る可能性がどこにあるでしょうか。唯一の道は、神ご自身が全てに決着をつけてくださることです。だから、神の御子の血とその死をもって償われなければならなかった。御自分の命である血をもって、それと引き替えに、「父よ、彼らをお赦しください」と叫ぶ、血の叫びです。御子の血による贖いの出来事です。
 「信じる者のために」と訳されている言葉は、原文では単純な「信仰による」という一言です。「信仰」は「真実」「信頼」とも訳されますが、「真実」は、まずは私たち人間の真実ではありません。正しい者など一人もいないのですし(10)、4節に、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」とあります。「真実(信実)」は、「神の信実」です。その「信」の出所、淵源は神ですから、信仰はまず「神の信」なのです。
 人間は神を知らないから神を殺す。そこには、「神がどなたで、どんなお方であるかを知っていたならば、そうではない」という、不思議な「神の信頼」が含蓄されています。その神の信実が私たちに触れ、神の信実に触発されほだされるように、私たちの信仰、信実が引き起こされるのです。
 主イエスの血は、私たちを愛して止まない神の愛の叫びです。そこで、私たちは、自分自身がどれほど尊い者とされているかを知り、主のものとされている本当の私になるのです。