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神から派遣されて

説教要旨(9月15日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 6:15-23
牧師 藤盛勇紀

 この手紙の書き出しでパウロは、「奴隷、パウロ」と名乗りました。ローマの市民権も持つ自由人なのにです。古代イスラエル人にとって「奴隷(僕)」という在り方は、必ずしも否定的な意味しか持たなかったわけではありません。主なる神はイスラエルに対して「わたしの僕イスラエルよ」と呼びかけ、「あなたを決して見捨てない」「あなたと共にいる」と、繰り返しくりかえし約束するのです。主なる神が僕のために全力を尽くして仕えるかのようです。
 イエス様は奴隷のように弟子たちの足を洗い、「仕える者」としてご自身を示されました。キリストは僕の姿を取られ(フィリピ2:6-8)、有名なイザヤ書53章には、その姿が「苦難の僕」として描かれています。「奴隷」は、神の愛と慈しみと憐れみと真実が惜しみなく僕である民に注がれる、麗しい関係を表す言葉でもあったのです。
 現代人にとって「奴隷」は否定されるあり方です。では現実はどうかと言えば、お金の奴隷、仕事の奴隷、時間の奴隷、やっかいな隣人との人間関係にがんじがらめの奴隷状態。だから誰もが「自由になりたい」。今さら何かの奴隷になるなどあり得ない。しかし、聖書はここで、人間は「罪の奴隷」か、それとも「神の奴隷」として生きるか、二つのいずれかしかないと言っています。
 「現代人は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉を紹介したことがあります。ある女子高生が書いた懸賞論文に引用されていたのですが、その高校生は、《自分を本当に自由にしてくれる束縛を求める》ということを語りました。スポーツのように、ルールが厳密に規定されると、その中で自由に自分の力を発揮できます。人間として自由に生きるためには、人間を規定するものがあることが前提です。それは人間の外から来るもの、《上なるもの》です。それがない自由は、宇宙空間に放り出されているようなもので、根本的に不安、まさに「自由の刑」です。
 パウロはここで二つの奴隷のあり方を示しています。一つは、解放されるべき奴隷。もう一つは、解放されたならば、自らその自由をもってなる奴隷です。「罪から解放され」という言葉が繰り返されています。そして「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」と。「罪」は神との関係の破綻であり、「義」は本来のあるべき関係です。「あなたを決して見捨てない、あなたと共にいる」と誓う神との関係を持たず、それを振り切って目的なき自由に生きて、結局自分を失っている人間の状態のことを「罪」と言います。
 しかし、ご自身が僕となり、人に捨てられ、罪人を解放するために命を注ぎ出された方、イエス・キリストを知る者は、《神が、どんな奴隷よりも真に奴隷らしくなられ、奴隷となって犠牲を払い、埃をかぶり、泥水を飲まれた》と知ります。この神の奉仕が人を罪から解放し、自由にします。私たちの自由は根拠ある自由であり、放り出された自由ではなく、解放してくださった方がおられる自由だと分かります。
 あなたは今、何の奴隷でしょうか。あなたを造り、存在させた神のものとして生き、その方を主とするのはあなたです。そうすれば、あなたの生きる場は、神から派遣された場となり、あなたは地上に派遣されたグランド・スタッフとしてその場を生きることになります。かつては、意味が無いと思われた場所にも、俄然意味が出てきます。
 それが「聖なる生活」です。いわゆる清さ正しさではなく、《神のものとされていること》。私たちは神のもの、天に属する者、天からの派遣スタッフです。欠けがあり、失敗もし、恥もかきますが、私たちには、《この欠け多き罪人は、キリストの血によって神のものとされ、天に所属する者》という身分証明があります。だから、神の僕として大胆にこの地上に出向くのです。