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神の主権と深い愛

説教要旨(12月29日 朝礼拝より)
ヨナ書 4:5-11
伝道師 杉山悠世

 ニネベへの神の赦しに対して「死にたい」と言うヨナの姿は、2章でヨナに与えられた赦しから「救いは主から来る」と祈ったことと相反するものです。まさに、彼もまた神の深い憐みのゆえに救い出されたにもかかわらず、同じ恵みがニネベに与えられることに怒っているのです。彼はこの矛盾に気づいていないのでしょう。4章においてヨナは自らの怒りについて問われているのです。
 ヨナはニネベに対する神の憐み深さを理不尽さと感じています。神の自由さに矛盾を感じているからです。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(4:9)。この問いにヨナは「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」と返答します。神はヨナのトウゴマの木に対する姿勢とニネベに対する姿勢を対比して、真の不条理がどこにあるのかを示しておられます。トウゴマの木によって主なる神は、ヨナを本来あるべき生き方に取り戻そうとしておられるのです。なぜならば、神はニネベの人々だけではなく、ヨナに対しても「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」だからです。
 はっきりとした答えの出ないまま閉じられるヨナ書の終わり方に、もやもやとした思いを抱いておられる方は多いでしょう。しかし、ヨナ書が神からの赦しの言葉によって終わっていることはヨナにとっても、わたしたちにとっても、大きな慰めです。ニネベに与えられた赦しは、イエス・キリストの十字架によってわたしたちに与えられた赦しです。受け入れられない現実に戸惑い、神の真実とは何か、御心とは何かと問いながら座り込むわたしたちに、神はイエス・キリストをお与えになったのです。直接に語られた御言葉さえも受け入れることのできない人間のために、贖い主として御子をお与えになったのです。
 葛藤と絶望を繰り返し、混乱の中に陥りながら、頑なさを打ち砕かれて座り込むヨナの姿はわたしたちの姿でもあります。的外れの期待をしているから、「祈りが聞かれなかった」と悲しむのです。誰かほかの人に注がれる神の愛を、示される寛容さを「わたしのものとは違う」と言ってねたむのは間違いです。他人にあって、自分に与えられていない物を数えたり、比較したりするのではなく、「わたしのために用意された」主なる神の恵みに目を注ぎましょう。それぞれに与えられている賜物の違いは、神がすべての人々に必要なものを個別に用意してくださっている証です。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。神はヨナを愛されたように、ニネベの町に生きる人々も、家畜も、地上のすべてを愛されました。その愛がわたしたちにも注がれていることが、主イエス・キリストによって示されました。
 自己矛盾に気づかずに神を否定したり、拒否したりすることがあります。けれども、わたしたちには神の御心を行う方が、先立って歩まれるイエス・キリストが与えられました。この方こそ、神の救いを求めて悩み苦しむ人間の中に、その歴史の中に、生活の中に真の人として生まれてくださった救い主です。この方に続いて歩んでゆくその道が、わたしたちの進むべき永遠の命へと至る道です。「救いは主から来る」のですから。この方の故に希望をもって新しい主の年を迎えましょう。