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神との和解

説教要旨(7月21日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 5:1-11
牧師 藤盛勇紀

 「わたしたちは、…神に対して平和を得ている」。「平和(平安)」と聞いて何を思われるでしょうか。イエス様がたとえ話をされました。ある金持ちが大きな倉を建て、穀物や食料を蓄えました。「こう自分の魂に言おう。私の魂よ、これから先何年分もの蓄えができた。安心せよ」。しかし神は言われます。「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12章)。
 自分で自分の魂に「安心せよ」と言う。確かに愚かなことです。どんな金持ちも、賢い人も健康な人も、自分の命が今日奪われる運命の不意打ちをかわすことなどできません。今日、あなたは死ぬ。そこにどんな平安があり得るでしょうか。
 ここでパウロが言う「平和」は、苦しみや困窮や抑圧や争いがない、ということではありません。「苦難をも誇りとする(喜んでいる)」と言うのです。実際パウロは、よくもまあ生きているなと思われるほどの苦難・艱難を経験しています。だからと言って、苦難の経験がパウロをひとかどの人物に磨き上げたとか、鍛えられて立派な信仰者になった、などということではありません。これでもかこれでもかという試練の中で、どんな状況の中でも《変わることなく自分を生かし支えてくださったお方》を経験していたのです。「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」(1コリ2:11-13)。生まれも育ちも文句なし、行いの点も非のうちどころがないと自ら言い切れる(ピリピ3:5)パウロが、「世の屑」「かす」と、おとしめられました。
 しかし、キリストと結ばれていることによって与えられた希望は、どんな出来事によっても、どんな人によっても、決して取り去られることがなかった。「希望は私たちを欺くことはない(失望に終わることはない)」、この事実を語っているのです。
 「なぜなら」、「私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです」。どんな目に遭っても、聖霊によって神の愛に満たされていた。そして「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています(喜んでいます)」。勝ち誇るような喜びです。「やった!」と、すでに得ているのです。肉の目では見ていないけれども、信仰は見えない事実を確認するのです。この真実は決して変わらないことを誇る。
 だからパウロはここで、キリストの死について語らずにおれないのです。「キリストが私たちのために(代わりに)」死んで下さった」。本当は私が死ななければならなかった、なのにキリストが私の行くべき所に行ってしまわれた。しかもキリストは、私たちが「まだ罪人であったとき」、私たちの代わりに死んで下さったのだと。罪人とは、神から離れてしまっている者。死と滅びに定められた者。その罪人の代わりにキリストは死んで、罪人にご自身の命を与えてくださった。このようにして、神は私たちに対する愛を示されたというのです。
 私たちはもはや、神がご覧になったら単なる罪人ではありません。神の敵でもありません。神との和解が成立しています。神と和らいでいるのです。「和解」は「交代・交換」という意味があります。私たちは滅びの指定席にいたのに、イエス様が「そこをどきなさい」と、悲惨な席に座られ、私たちには神のふところに休らう席、栄光の座を与えて下さいました。
 だからこの世がどんなに危ういものに見えても、そこで絶望するのでなく、なおなお希望を持ち得ることを知るのです。私たちの人生は絶望に終わるつまらない人生ではなく、誇るべき人生です。パウロも「世の屑」とまでされたけれども、それに単に耐えたのでなく、喜び誇ったのです。「どうだ!私は神のもの!誰もこの事実、この喜びを取り去ることはできない! この命が、キリストによってもたらされたのです。