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絶望から生まれた信頼

説教要旨(10月20日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 7:24-25
牧師 藤盛勇紀

 ヨハネの黙示録は「難しい書物」「破滅的な終末のイメージ」といった印象があるかと思います。「黙示録」と訳されている言葉は「啓示」という意味で、覆われていたものが啓かれ示されたもの。神がキリストにおいてご自身を示され、キリストが天使を遣わしてヨハネに記させ(1:1)、試練の中にある者たちに語られた言葉です。これが書かれた時期は1世紀終わり、苛烈な迫害が行われた時代です。不思議な幻やシンボルに満ちていて、破滅的なイメージもあるのは、そうした時代背景も理由の一つでしょう。また、謎に満ちたミステリー的な魅力が、「予言の書」として解釈しようとする人々を惹きつけるところもあります。
 しかし、黙示録は《神の啓示》ですから、「預言」ではあっても、将来起こることを言い当てるという意味の「予言」ではありません。私たちは将来を予見することはできません。神は生きておられる方ですから、私たちはこのお方と交わり、信頼をもって聴きながら、終わりを目指して生きて行くのです。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」とあります。この書は、キリスト者たちの礼拝・集会の中で読まれ聞かれるべきものとして書かれています。おそらく、全体が一挙に読まれ、これを聞いた初代のキリスト者たちは特別な解説などなしに理解したと思われます。文字通り命がけの礼拝の中で、信者たちを励まし、慰め、力を与え続けたのです。
 なぜこの書にそのような力があるのか。それは、これが神の《啓示》だからです。人が本心で何を考えているのか、その人自身が打ち明けてくれなければ分かりません。啓示は、神ご自身がその御心、御計画を《打ち明けられた》ことですから、人間が考えても決して分かりません。いわば神の打ち明け話ですから、思いもしなかった不思議さがあり、「そうだったのか」と慰められ、「ここまで考えてしてくださっていたのか」と励まされ、力になるのです。
 そのような方に信頼しつつこの書を読むならば、単に難解な書などではなく、慰めと励ましと希望に満ちた書物となり、意外と、親しみを覚える言葉に満ちていることにも気づくはずです。
 「地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」。皇帝崇拝が強要され、キリスト者たちが殺されていった時代、この言葉を聞いて主を礼拝した民がどれほど励まされたことでしょうか。この黙示録も、まさに命の書なのです。
 黙示録に殉教者たちのことが出てきます。これまでの2千年の歴史の中にも証しが満ちています。過酷な時代、何がなくとも何を持っていなくても、死の時も、「ただあなたを信頼します」と生きる者を、主は生きて支えてくださっています。この方は、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、その方がこう言われます、「わたしはアルファであり、オメガである」。あなたを存在させ、生かし導き、そして終わらせる、つまり完成させ、成就させ、実現させ、全てを満たされるのです。
 「時が迫っている」とあります。《時》はカイロス。「すぐにでも起こるはずのこと」とは、間を置かず直ぐではなく、《時》が来たなら確実に起こるという意味です。言い換えれば、神は私たちのために御計画を持っておられるので、確実にその成就・完成をもたらし、実現してくださるのです。だから、生きる時にも死ぬ時にも、私たちが聞くべきお方はこのお方。この方の打ち明け話が啓示です。だから、慰めと力に満ちている慕わしい言葉なのです。
 この24と25節は不思議な言葉です。明らかに絶望しているのに、「感謝します」。ヨハネの黙示録に「今から後、主に結ばれて死ぬ者は幸いである」とあります。これも不思議です。イエス様も山上の説教で、「貧しい人々は幸いだ」「悲しむ人々は幸いだ」と言われました。主がこの不思議な幸いを語ったとき、最後にこう言われました、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」。主が言われる「幸い」とは何なのでしょうか?
 食前の感謝の祈りを英語で"grace"「恵み」と言います。それがなぜ「感謝」になるのか。その理由は聖書によらなければ分かりません。25節に「感謝」があります。これは英語の"grace"に当たる言葉です。これは「神の」恵みです。神の恵みには、具体的な神の御業があります。「感謝」とは、その恵みの下に生きる人の在り方なのです。もしあなたが感謝しているなら、あなたは恵みの内にいるはずです。もし、あなたが感謝していないなら、あなたは恵みを知らない可哀想な人、残念な人でしょう。「悲しんでいる者は幸いだ」「主にあって死ぬ者は幸いだ」と主が言われるのは、「あなたは残念な人じゃない、可哀想な人なんかじゃない」ということです。
 この幸いは「主にあって」です。あなたの主がおられ、あなたのために主が何をしてくださったか、してくださるか。主の御業を知っているなら、悲しんでいても慰められ、死んでも生きると分かります。
 ここでパウロは罪の悲惨さに目を注いでいますが、一般的な話ではなくパウロ自身の話です。自分の内に住む罪を見つめながら、深く降っていくのです。ある人は、「パウロが壊れていく」と言ったほどです。そしてついに、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫ぶ。パウロは「私たち」人間の罪の問題を語ってきながら、いつの間にか「わたし」と語ります。この私を誰が救えるのか、この私は救いようがないではないかと。
 落ちていく自分を自分で持ち上げることができないように、人間には「もうどうにもならない」ところがあります。死もそうです。誰が救い得るでしょうか。誰が慰められるというのでしょうか。
 そのような絶望的な人間を、しかし神は絶望しません。ノアの大洪水の後、神は御自身の心に言われました、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。それをご存知の上で、生けるものをことごとく滅ぼすことは二度としない、と誓われました。
 人間の救いようのなさは絶望的です。しかし神は、人間を絶望の中に捨て置かれることなく、希望をもってつながれるのです。人類の歴史も私たちの人生も、それを証しするものです。
 パウロは自分の救いようのなさを見ました。「私は何と」と絶望し絶句するしかない。ところが、このような私のために、独り子を犠牲にして命を与えようとされる「神の恵みがある」。だから「感謝」なのです。私たちの主イエスを通して神に感謝! パウロは惨めさのどん底で感謝します。恵みは、「神の」恵み、上からの恵みであり、私たちを取り囲む恵みです。
 《惨めさ》が「この私」のことであるように、《恵み》も常に「この私」のことです。なんと、この私に恵みがある、恵まれているこの私がある。その不思議が「あり難い」ということでしょう。この「神の恵みの中にある私」を知る者が、幸いな者、感謝する者です。恵みの御業をなさる主が今生きておられるので、私たちはパウロと共に、代々の聖徒と共に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と告白するのです。