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賜物としての命

説教要旨(9月22日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 6:20-23
牧師 藤盛勇紀

 「罪が支払う報酬は死です」。有名な聖句ですが、人間の死という永遠の謎の真相を表しています。聖書は人間の理性では届かない究極の事柄を照らし出します。文芸評論家の富岡幸一郎さんは、聖書は私たちの姿が映し出される「鏡」だと言いました。そして「聖書は、時代をも映し出し、そして“今はこういう時代なんだ”と理解させてくれる」と。
 百年以上前、華厳の滝から身を投げた旧制一高の藤村操の辞世「巌頭(がんとう)之感」。その中の「万有の真相はただ一言にしてつくす。曰く『不可解』」という言葉は有名になりました。この「不可解」に突き当たってしまうと、それが解けないまま生きるのは困難です。不可解を解くもの、万物を照らし、その意味を浮かび上がらせるものが必要です。それは、万有をまさに有らしめる真の主に聞くしかないのです。
 「罪」とは神との関係が破れた、《神無し》のことですが、神無しのまま生きることをパウロは「罪の奴隷」と言いました。神との関係がなければ、神以外のものを主として、それに囚われて生きるしかありません。その奴隷状態は結局どこに帰着するのか、それは「死」だというのです。
 ヨハネ黙示録に「第二の死」が出てきます。人間の死は言わば二重です。そして生も二重です。生物として生きているだけでは生きているとは言えない、そういう次元の命があります。しかし、命の主無しには、自分の命は何なのかが分からず、どう扱えばよいのか分からない。それで、自分で自分の命を殺すということも起こるのです。
 しかし、パウロは言います。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」。ここで命は、「神の賜物」と捉えられています。イエス・キリストによる命は死を通って、《死を克服している命》として与えられます。
 イエス様は言われました。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)。《死から命》、この移行に本来の命があり、それは神の賜物なのです。私自身とさえ考えられる私の命は、私のものではない、神からの賜物だというのです。
 《自分の命》は《自分自身》でありながら、《自分とは離れている》。これは謎です。しかし、命の主の言葉に照らされたならば、それが本来なのだと分かります。私たちの命はこの方からの賜物。人間は本来そうなのだと。この方との関係無くして本当の命はない。まさに賜物です。
 イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました(ヨハネ11:25)。この方が復活であり、この方が命なのです。この方との関係を持たないまま、関係が破れたままで生きて死ぬことを、「罪の支払う報酬は死」と言ったのは、人間の真相を言ったわけです。もし、命を「賜物」として受け取らなければ、転落して終わるのです。
 しかし、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。キリストの十字架には、世の贖いがあるからです。代価を払って買い戻す「贖い」。「罪の奴隷」としてがんじがらめになって、死に落ちていくだけだった私たちは、キリストの十字架の死によって、神のものとして買い戻されました。そしてキリストと結ばれて、神の命に与ったのです。キリストのものとされたなら、もう「不可解」な死へは転落しません。命綱に結ばれたからです。キリストには「死から命へ」の移行があります。だから私たちは「生きて死ぬ」のでなく、キリストと共に「死んで生きる」のです。私たちにとって最大のテーマは、もう死ではありません。「死」はもう終わったこと。神と共に生きる命、それが私たちの祝福であり、最大のテーマなのです。