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信仰への一歩

説教要旨(4月2日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 23:50-56
牧師 藤盛勇紀

 今日の聖書の箇所は、イエス様の埋葬の記事です。主はすでに息を引き取ってしまいました。言わば、死と復活の谷間です。この直後、安息日が始まりますから、ますます何も起こらない静寂の時となります。教会では「暗黒の土曜日」とか「沈黙の時」と言われてきました。
 主イエスはすでに一つの遺体となっています。何もなさず、何も語らず、何も表現されません。神は沈黙し、人だけが動いています。行動するのはアリマタヤのヨセフ。ここにだけ登場する人ですが、彼がイエス様の遺体を引き取り、墓に納めました。マタイ福音書によれば、彼自身の墓です。
 ところが、思いがけないことになりました。自分の遺体が置かれるはずの墓に、イエス様のご遺体を納めることになったのです。それは、この金曜日の晩から日曜日の早朝まで1日半ですが、一時的であれ、彼の墓は確かにイエス様のご遺体を納めた墓になったのです。
 この後、自分が入るべき墓は、主イエスが復活された場所となったわけですから、これまでは考えもしなかった全く新しい思いを抱きながら、墓を見るようになったに違いありません。
 それにしても、ユダヤの最高法院の議員であったヨセフにとっては、神に呪われたイエスの遺体を引き受けるという行動は、異常な行動です。「同僚の決議や行動には同意しなかった」とありますが、彼の行動は決定的で、突出した行為です。
 イエス様は神を冒涜した者、神に呪われた者として十字架にかけられました。その死体に触れることは、自分も汚れることを意味します。ヨセフの名誉は損なわれ、彼自身、汚れた者とされます。ユダヤ人の指導者の地位を決定的に危うくする、大胆な行為です。
 何が彼をそうさせたのでしょうか。主はすでに死んで、無残な遺体となってしまった今、彼を大胆な行動に突き動かしたのは、何なのでしょうか? 彼の行動は、以前から主に従っていた人々とは正反対です。弟子たちも皆逃げ去って、身を隠しています。しかし、ヨセフは逆に、人々の前に一人で飛び出したのです。
 今さら、という思いもします。主が捕まった時に逃げてしまった弟子たちと比べると、間が悪いのではないかと思われます。なぜ、今さら最前線に出てしまうのか?
 一つには、彼が「神の国を待ち望んでいた」人だったからです。「神の国」は神のご支配。神が神として、その民を愛と憐れみと恵みによって支配してくださる、その実現を待ち望んでいた。そして、あのイエスの十字架の死に、神の国が開かれつつあることが、なぜか分かったのです。主イエスの十字架の死が、彼を神の恵みの前に引っ張り出して立たせたのです。ヨハネは、十字架で死んだお方のもとに立ちました。不思議にも、死なれたお方によって引き出された。そこは、一人で出た者でなければ分からない、不思議な場所です。
 ヨセフは進み出ました。彼はユダヤ人の指導者としての全てを失ったかもしれない。それでも彼は、自分でも思いもしなかった自分自身を見い出したでしょう。「死んでくださったお方によって、引き出されている自分」です。「神の国を見て、主の前に一歩進み出る自分」です。
 何も言わぬ十字架の主のご遺体。他でもない私たちのために、この地上で救いの御業を成し遂げて死なれたお方のご遺体、人となって十字架で死なれた、神の御子の遺体であって、それが一人の人間を、一人の人として立ちあがらせるのです。私たちキリスト者が、まさにそうです。神の国の希望をもって主に近づく時、私たちは、思いもしなかった力に捕らえられて、生きる方向を定められ、立ち上がらされ、思いもしなかった自分を発見するのです。