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主がお入り用なのです

説教要旨(4月9日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 19:28-40
牧師 藤盛勇紀

 イエス様と弟子たちの一行は、目指していたエルサレムに入ります。いよいよイエス様はメシアとして、新しい王として、大きな御業をなされる。多くの人々の期待を受けてのエルサレム入城です。
 ところが、イエス様は不思議にも子ロバに乗って入城されました。これは、弟子たちにとっても不可解だったでしょう。いよいよ都入りの肝心な所で、なぜロバの子? 
 意味が分からないまま弟子たちは、主イエスに命じられた通り、向こうの村へ遣いに行きます。言われた通り、子ろばをほどいて、引いて行こうとする。すると、主が言われたように、その子ろばの持ち主たちに問われます、「なぜ、子ろばをほどくのか」。いや、弟子たちだって不思議なのです。「なぜ」か、彼らも聞きたいのです。
 ただ、はっきりしていることは一つ、「主がお入り用」だということです。主のご計画があり、主がお決めになった。だから、主はお命じになられる。それだけです。
 私たちも今、それぞれのあり方で生き、生かされています。それぞれの生活があり、役割があり、置かれた状況があります。それは「なぜ」なのでしょうか。
 それは、「そのように、主がお入り用だから」ではないでしょうか。仮に、今の状況が他人から見て「不幸」だったとしても、その理由は、過去に原因があるからでなく、他人のせいでもありません。それは、生まれつき目の不自由なある人についてイエス様が言われたように、誰のせいでもない、「神の業がこの人に現れるため」(ヨハネ9:3)です。つまり、その人も、私たちも、「主がお入り用」なのです。
 それ以外に、理由はありません。そして、私たちの存在の意味もまた、「主がお入り用」だから、主のご計画と意志があるからではないでしょうか。
 「主が」私たちを創られ、主が私たちを選ばれ、主が私たちを用いられ、主が、ご自分の御心を、そのみ業を、私たちを通して現されるのです。
 私たちは、その「主」のもとに生きる者です。この順序、「主が私を」という主従の関係、この秩序は変えられませんし、私たちが「主のもの」として、「主に用いられ」「主の御手に取られる」ときこと、私たちは、それぞれ私たちらしくなるのです。「私が何であるか」、その意味も、主のものとして、主の御手に取られ、生かされ用いられている時に、満たされるのです。
 私たち人間には様々な根本的な問いがありますが、私たち自身の本当の問題は、「主」が問題なのです。つまり、「私の主は誰か」です。
 「弘法筆を選ばず」という言葉があります。どんなに粗末でクセのある筆でも、弘法の手に取られたなら、どんな筆でも用いられ、生かされ、その筆は立ちます。
 神の選び、主のお入り用も、そういうことでしょう。その筆はどう立つのか、それは弘法の手の中で見なければ分からないのと同じく、私たちも主なる神と切り離されたところで見ても意味は分かりません。「主がお入り用なのです」と、主の御手に取られ、主によって生かされているところで、私たちは、それぞれの筆が立つように、立たされ、用いられ、意味も充満するのです。
 だから、「なぜ、子ろばなのか?」と、子ろばだけを見ても、何も分からないのです。主は弟子たちに言われます、「もし、だれかが『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。 もし誰かが、あなたの生きる意味を問うなら、あるいは今のようなあなたである理由を尋ねるなら、「主がお入り用なのです」と答えられるのです。「なぜあなたはそんな惨めなのか」と問われたとしても、「この身に、神のみ業が現れるために、主が私をお入り用なのです」と生きられる。それが、主のものとされた私たちです。