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いささかも疑わずに

説教要旨(10月29日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 1:5-8
伝道師 新佐依子

 知恵と知識は違います。知識は認識などによって得た理解や技能ということですが、知恵は筋道を立てて考え、それに基づいて行動していくための能力です。ですから私たちの行動を決めるのは、私たちの知識ではなく知恵であるといえます。そう考えますと、私たちの日常の行動を決める上で重要になるのは、どういう知恵を用いて物事を判断するか、そしてその知恵をどこから手に入れるかということになります。行動するということは生きることそのものですから、私たちの行動を決める知恵というのは、私たちの生き方を決める知恵ということになるわけです。
 私たちクリスチャンの場合、それはもちろん、神様からいただく知恵ということになります。私たちはイエス様に結ばれ、神様との交わりの中で新しい命を生きるものとされたのですから、常に御言葉に聞き、祈るという神様とのやり取りの中で、日々神様から知恵をいただき、それをもとに行動していくのです。
 しかしこれは簡単なことではありません。聖書には、私たちの日常の具体的な事柄が書かれているわけではありませんから、自分自身の人生を生きるための知恵をどうやって神様からいただくのか、よく分からないというところがあるからです。
 この問いに対して聖書は「神に願いなさい」と応えています。ただ「祈りなさい」ではなく、「願いなさい」「要求しなさい」というのです。神様に対して「もっと恵みがほしい。もっとくれ」と言って積極的に向かっていくのは、神様に拠り頼む者であれば自然なことです。信仰はダイナミックなものです。神様の素晴らしさを知れば知るほどもっと知りたくなるのは当然です。もし本気で、今ここで自分が為すべきことを判断する知恵が欲しいと思うなら、食らいつくような思いで神様に求めていかなくてはなりません。聖書は「いささかも疑わずに願え」と言います。ここにしか答えはないと信じて命懸けで貪欲に神に求めていけというのです。
 そのような命懸けの求めに対し,神様は必ず応えてくださいます。人や出来事、その他様々なものを通して、私たちは今《この私》に向けて語っておられる神様の生の声を聞くことができます。この生の声から、私たちは自分の行動を決める知恵をいただくのです。もちろん、それでも間違った行動を取ってしまうことはあります。しかし神様からいただいた知恵に基づいて行動したのであれば、その間違いに気づく知恵も、あるいは間違いを修正する知恵も、神様がくださいます。だから安心して、堂々と、自分の決めたことを行えばいいのです。
 しかしどうも私たちの祈りには、この食らいつくような必死さ、貪欲さというのが、しばしば欠けてしまうように思います。ここで教えていただかなければ生きられないという命懸けの切迫感がないのです。
 人間は時がたてば物事を忘れていきます。私たちは生ける神イエス様と、じかに触れあうような出会いの体験をし、その衝撃と感動を経験したはずです。しかしその感動は時間と共に薄れ、同時に私たちの祈りからも切迫感が薄れていきます。だから聖書は、繰り返し繰り返し「思い起こしなさい」と語るのです。イエス様との出会いの体験は、いくらそれが素晴らしいものであっても、そのまましまいこんでしまっていたらその感動は過去のものとして薄れていくだけです。そうなるとすぐ、私たちはこの世の様々な声に惑わされてしまいます。そして、神様に献げる祈りからも、命懸けの必死さ、貪欲さがなくなってしまうのです。
 だから私たちはいつもイエス様との出会いを思い起こし、自覚的に自分の方から神様に求めていかなくてはなりません。「もっと恵みが欲しい」「もっと知恵が欲しい」と、貪欲に求めていくことで、私たちと神様との関係はますます深まっていくのです。私たちがいささかも疑わず、積極的に求めていくことを神様は待っておられます。