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神はあなたの味方

説教要旨(12月24日 クリスマス礼拝より)
マタイによる福音書 1:18-25
牧師 藤盛勇紀

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。厄介な状況です。「できちゃった婚で」などど言ってすむ時代ではありません。死刑の恐れもあり、誰に相談するわけにもいかず、ヨセフは一人悩みます。「もしや他の男と」と、マリアに対する不信感もよぎったかも知れません。一気に全く孤独な苦悩の暗闇です。
 その闇の中で、主の御使いがヨハネに告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。ヨセフは正しい人だったからこそ恐れたのでしょう。「なぜ神は私たちをこんな過酷な状況に追い込むのか」。「何かとんでもない罪を犯したのか」。しかし御使いは、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言います。神がなさったのだ、この状況のまま行け、恐れず行け!そして、マリアが産む子に「イエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言います。
 「罪」とは何でしょうか。犯罪か道徳的な罪か、あるいは単なる悪か。しかし、聖書がいう「罪」とは、神に背を向け、神を無視し、神無しで生きていることです。
 北野武さんが一昨年、『新しい道徳』という本を著しました。意外と聖書の引用がたくさんありました。彼は、日本の学校で道徳を教えるのは不可能ではないか、日本には神が無いからだと言います。たとえば、人は牛を殺して食べてもよいが、なぜ人を殺してはいけないのか、神抜きに説明できるならしてみろ、と言うのです。
 神抜きでは、人間の生き方はブレーキのない車のようになります。ハンドル操作でやり過ごしている間はよいかも知れませんが、いつか止まらなければなりません。それを意識した時、ようやく深刻に考えるのではないでしょうか。
 闇の中でヨセフも死を意識したでしょう。「ああ、俺たちはもう終わりなのかな」。私たちだって分かりません。明日生きている保証はなく、いずれ必ず死にます。しかしそこから示されてくるものもあります。
 日本で最初にホスピスを導入した柏木哲夫さんは、良い死とは何かを考えて、結局「平安」だと言います。「平安」は、神から与えられる霊的なレベルで安んじていることです。私が神の御前に出る時、私の罪の問題、私が神に対してしなければならないこと、神の御前で問われること、それらの一切の不安がすでに完全に解決されている、という平安です。これは、《神とあなたが、どういう関係にあるか》によるのです。
 どんな所でも、どんな時にでも、何を失ったとしても、失われない平安と命を与えるために、イエス・キリストは世に来られました。どうやって平安を与えたのでしょうか。それは、私たちの罪のために、このお方が代わりに死ぬという仕方でです。私たちが神に対して果たさなければならない責任を全て負われ、私たちが神に呪われて当然であったのに、このお方が十字架にかかって呪われた者となってしまわれた。そこまでしても、神は私たちと共にいることを決意されたお方、インマヌエルの神です。
 神がそこまでされるのは、私たちが悔い改めたからでも反省したからでもなく、私たちが信じるからでもありません。神は愛だからなのです。この神の愛は人間に依存しない愛です。あなたがどんな状況であっても、それにもかかわらずの愛です。
 イエス様は、呪われ裁かれて「平安」の無い死を死なれました。それによって、私たちには罪の裁きによる死もなく、呪いも一切なく、平安と祝福だけがあるのです。そのようにして罪人のために死ぬ。そのためにイエス様はお生まれになりました。このイエス・キリストを、神の愛と恵みとしていただきましょう。