HOME | 説教 | 説教(2017年度) | 信仰に賭ける

信仰に賭ける

説教要旨(8月13日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 1:2-4
牧師 藤盛勇紀

 経験の積み重ねは私たちの人生にとって大きな意味を持つものです。長い人生で様々なことを経験してこられたご高齢の方のお話などは、とても重みのあるものです。
 信仰というものについても、経験の重みというものがあると思います。私の信仰の大先輩は、どんな状況の中でも「大丈夫、イエス様が一番良いようにしてくださいます」とおっしゃって、いつも平然と祈っておられます。あの落ち着きの裏には、信仰の確かさももちろんですけれども、それに加えて「これまでも、そう信じてきて間違いはなかった」という経験から得た確信がおありなのだろうと思います。
 イエス様はいつも一番良いことをしてくださいます。なぜならイエス様がしてくださることはすべて、終わりの日の神様の御国につながっていくからです。この「すべては終わりの日につながっていくから大丈夫。その日に向けて、イエス様は今一番良いことをしてくださる」という信仰は、私たちがいっさいの光を失って、全くの暗闇の中にうずくまるような状況に陥ったとき、なお立ち上がる力を与えてくれるものです。しかし、実際にこの力で、どん底のような状況でなお立ち上がるというのは、そう簡単にできることではありません。
 今日お読みしました『ヨシュア記』の箇所は、「ヨルダン川渡渉」として知られている箇所です。約束の地に向かっていたイスラエルの人たちは、ヨルダン川の手前まで来ました。この川を渡らなければ、約束の地に入ることはできません。神様は、祭司たちが川に足を入れると、川の水はせき止められるとおっしゃいました。しかしこれは、容易に従えることではありません。このときのヨルダン川は堤を越えそうなほどの水が滔々と流れていました。そんなところに足を踏み入れたら、簡単に流されてしまいます。けれども神様は、祭司が足を川に踏み入れれば川の水をせき止める、とおっしゃるのです。水をせき止めるから渡りなさい、ではありません。足を踏み入れたら水をせき止める、です。これが約束の地に至るための道だと、まず信じて、足を踏み入れよ、ということです。人間の頭で考えたら自殺行為ともいえることです。しかし神様は、信じて行え、というのです。
 終わりの日の約束というのは、頭で納得できるものではありません。信じるしかないのです。それを信じさせてくれるのは神様です。そして、その信仰に基づいて実際に生きるようになるには、信じて行動してみるという一種の「賭け」が必要です。大丈夫だと納得して行動するのではありません。自分に与えられた信仰に賭けて、行動してみるのです。そしてその賭けに勝つことを繰り返すうちに、次第に堂々と、安心して、大胆に行動できるようになるのです。
 『ヤコブの手紙』1章3節では、「信仰が試されることで忍耐が生じる」と言われていました。私たちの信仰は、試練に遭うとき、試されるというのです。言い換えれば、どちらに賭けるかということです。私たちはもう駄目だというような人生の危機にあっても、なお終わりの日の約束が示されています。その信仰に生きる方を選んで自分をそこに賭けてみたとき、それは私たちの希望となります。そして、終わりの日に向かって何らかの道が拓けてくるのを、忍耐して待つ力を生み出すのです。
 そうやって待ってみて、実際に道が拓けたという経験を重ねていくと、私たちの信仰は次第にしっかりしたものへと成長していきます。はじめは賭けでしかなかった「信じて行動する」ということも、次第に根拠ある確信に変わっていきます。そして次に試練が訪れたときには、より安心して待つことができるようになるのです。私たちの信仰の歩みというのは、このようにしてより確かなものとされていくのです。