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神の賜る命

説教要旨(11月5日 逝去者記念礼拝より)
ローマの信徒への手紙 6:20-23
牧師 藤盛勇紀

 「どうせ死んだら無になるだけだから、死そのものは怖くない」と言う人がいます。しかし、そう簡単ではありませんし、実は死んで終わりでもありません。
 「罪が支払う報酬は死です」とあります。有名な言葉ですが、人間の死という深い謎の真相を、一言で言い表した言葉でしょう。「死」は罪の結果だというのです。聖書がいう「罪」とは、命の源であり私たち自身の命のルーツである神との関係が切れていること、そしてそのまま生きようとしていることです。その行き着く先は「死」。さらに言えば、滅びです。それは単なる「無」ではありません。もっと悲惨な何かです。
 多くの人は死の意味など考えず、とりあえず生きることにしています。しかし、いずれ時間切れです。しかも、死の様をつぶさに見るなら、やはり死は悲惨なのです。「どうせ無になるんだ」ぐらいでは、残念ながら、すんなりと死ぬことはできません。
 『氷点』(三浦綾子)の主人公の陽子は、自分の育ての親の実の子を殺した殺人犯が、自分の実の親だと知り、睡眠薬を飲んで自死します。自分の内の罪の深淵を見た時、「あなたのせいじゃない」とか「あなたとお父さんは別だ」など、そんな人間の慰めや励ましの言葉など力になりません。人が本当に死から立ち上がるには、人間を超えた究極的に権威ある存在からの赦しと命が必要なのです。陽子はその思いを遺書にしたため、彼女の体には雪が降り積もります。
 イザヤ書に、「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる」とあり、詩編にも「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように」とあります。「雪」の白さは、神の完全な赦しを表しています。
 私たちは礼拝の中でローマ書8章から「赦しの御言葉」を聞きますが、その8章には、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」ともあります。『氷点』の陽子は、まさにこれを求めたのです。
 命の主から聞かなければ、「死」を理解することはできません。人間だけが死について悩みます。「なぜ死なねばならないのか」「なぜあの人が」「なぜ私が」「どうしてこんな仕方で」。動物の死は、悲しくても謎ではありません。しかし人間の死は「謎」なのです。それは、生も謎だからです。人間は動物のようには生きられませんし、動物のようにも死ねません。人間は、ただ自然に生きて自然に死ぬだけではないからです。
 人間の「生と死」は、神聖なものです。神との関わりを思わせるのです。それを、「生きて、死んで、無になって終わり」などと言うのは命に対するこれ以上ない侮辱です。命の主に対する無礼です。神がおられるなら、それこそ万死に価するでしょう。
 「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」。23節の前半は、言わば私たち人間の自業自得です。しかし、そんな私たちに対して、「神の賜物」である命があるというのです。この命は、イエス・キリストにおいて死を通り、死を克服して受け取られる命です。私たちの命は、神からの賜物なのです。「生きて、死んで、無になって終わり」だなどと粋がっている愚かな人間に、「命を得よ!」と神は願っておられます。しかもそのために、神は最も尊い独り子イエスを、死に渡してくださったと、聖書は告げます。
 このお方から離れるということは、最も崇高なものを捨てることです。そんな罪の報酬としての死を死んではならないのです。
 神に背を向け、侮辱し反逆する者の罪を、父なる神は全て御子イエスに負わせ、十字架で処断されました。このキリストによる永遠の命=神の命が、私たちに差し出されています。「父よ、感謝します。いただきます」と、受け取ろうではありませんか。