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まっすぐで自由な道

説教要旨(7月23日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 2:11-14
牧師 藤盛勇紀

 イエス様から直接召された十二使徒の中でも一番弟子的なペトロに対し、かつて教会の迫害者だったパウロが、「非難すべきところがあったので、面と向かって反対した」というのですから、大変な事態です。パウロは、「彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見た」と言います。
 この手紙が書かれる数年前、母なる教会エルサレムで「使徒会議」と呼ばれる重要会議が行われました。異邦人の救いの問題を巡って、キリスト教会が真っ二つに分かれた大論争です。ユダヤ人側は、「異邦人が救われるためには、イエスを主と信じる信仰だけでなく、律法を守り割礼を受けなければならない」と主張し、異邦人に伝道していたパウロたちは、「信仰のみ」だと主張しました。会義の結果、「信仰のみ」との結論が出て、改めて大胆に異邦人伝道が展開されて行ったのです。
 現在の私たちからすれば当然だと思われますが、ユダヤ人と異邦人の間の壁は、私たちの想像をはるかに超えます。救いに関わる問題であるゆえに、キリスト者同士でも一緒に食卓を囲めない、共に聖餐を守れない、つまり礼拝を一緒に守れない、それほどの深い溝だったのです。
 しかし、そうした状況もどんどん変わっていました。ペトロ自身、主からの啓示によって頑なな古い考えが砕かれて、すでに異邦人との交わりを喜んでいたのです。そして、異邦人主体のアンティオキア教会を訪ねて来ていました。
 ところが、エルサレム教会から主立った人々がやって来ると、ペトロは彼らの目を恐れて尻込みし、異邦人との交わりから身を引いたのです。しかも、パウロの同労者であった「慰めの子」バルナバまでもが、異邦人信徒たちから離れて別の礼拝を始めてしまったのです。教会の分裂です。
 これは、現代の教会からすれば、「信仰のみ」の否定であり、「恵みのみ」の否定です。さらに、全てのものをご自分において一つにされるキリストを否定することです。
 だから、断じて認めるわけにはいかなかったのです。パウロがペトロたちを激しく非難するのは当然です。あり得ないことを、教会の最高指導者たちが平気でやらかし、その異常さにも気づかない。しかしこれは、残念ながら教会の常です。だから常に主の御言葉によって改革され続けなければならないのです。
 パウロの語った福音は、ただキリストの十字架と復活の恵みです。このキリストに結ばれ、罪赦され、義とされ、神のものとされ、神の命に新しく生まれ、神の子とされている。この救いは、ただキリストを信じて受け入る「信仰のみ」、という恵みです。
 ペトロら教会の最高指導者たちが、この「信仰のみ」「恵みのみ」に立ちはだかって、人間の歴史が生み出してきた伝統や習慣や知恵が、救いにとって不可欠な重要なものだと考えてしまう。御言葉に全面的に信頼できず、恵のみではもの足りなく思って、自分がなしてきたこと、獲得したもの、積み上げた何かを付け足したくなるのです。
 ペトロやバルナバたちでさえこうなのです。私たち凡人はなおさらでしょう。だからこそ、自由にキリストにのみ従うことを、いつも確かめていたいのです。
 キリストにのみ従うということは、「人間が与えてくれるものや、この世で誇るべきものがないと」と考えてしまっている自分に死ぬこと、手放すことです。そして、「私は、キリストの恵みのみによって生きられます」という自分を再発見させていただくことです。
 生きる時も死ぬ時も、私はキリストのものであり、神の子とされている。ここから始まるのです。ここから全てを始めてよい、ここから生き始め、これによってのみ生きられる。この福音の真理に従って、まっすぐに自由に歩んでよいのです。た恵みの伝統なのです。