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離散している人たち

説教要旨(7月9日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 1:1
伝道師 新佐依子

 今日から、私が朝の礼拝を担当するときは、ご一緒に『ヤコブの手紙』を読んでいきたいと思っています。その出だしの挨拶のところは、「離散している十二部族の人たちに」となっています。「離散している」という言葉の裏には、本来ならある一か所に集まっているはずだというニュアンスがあります。これは今を生きている私たちクリスチャンを表している言葉です。やがて最後には神様の御国に集められてひとつになり、皆ともに生きるようになる。それを希望に、私たちは今この世のあちこちに散らされて生きているのです。
 しかし私たちを含め、今この世で生きている人たちは、共に生きることの幸せをどれほど実感できているでしょう。地球規模で、地域で、会社で、家庭で、いつもどこかで様々な対立やもめ事が起こっています。私たちが日常生活で経験する悩みや苦しみは、その多くが人間関係によるものなのです。そういう人間関係の問題の難しさは、私たちが自分の基準で相手を判断してしまうというところにあります。本当は相手と自分という二者がいるのに、自分の側だけの基準で人を計ってしまうのです。
 人間はみんな、誰もが平和を望んでいます。しかしいざ当事者となると、どうしてもそれができません。自分の思いだけで相手を裁いてしまいます。その根底には罪の問題があります。人間は罪を犯し、神様との関係を壊してしまいました。そのため、神様なしに自分ひとりで生きるしかなく、物事を判断するにも自分を基準にするしかありません。しかしそもそも人間は、自分を基準に物事を判断するようには造られていません。神様が善悪の知識の木の実を禁じられたのは、善悪の判断は人間には重すぎて担えないからです。人間が自分を基準にして行う判断は全く不正確です。そのため、人間の知恵も愛も人間関係も、すべてどこかにゆがみを孕んでしまっています。この問題が解決される道は唯一、神様と私たちの関係が回復されることだけです。そして実際神様はそのようにしてくださいました。それがイエス様の十字架です。
 罪の問題というのは非常に深刻です。それは互いの関係を壊すものだからです。一旦壊れた関係は、被害者が加害者をゆるしたとき初めて回復への道が拓けます。しかし被害者としては罪をゆるすというのは大変に辛いことです。ゆるすというのは、相手から受けた傷の痛みをもはや外には向けず、全部自分の内側に抱え込むということです。そこには相手の罪によって受けた苦しみ以上の苦しみがあるのです。
 それほどに辛いゆるしを、神様は私たちに与えてくださいました。それがどれほどすごいことか、私たちは自分が神様に対してしてきたことを考えれば分かります。私たちは神様を無視し、神様が与えて下さったものを自分で得たと驕り、神様が教えて下さったものを自分で知ったと誇ってきました。これが私たちの罪です。神様がゆるしてくださったのは、これほどまでに酷い罪なのです。この、ゆるされたものの大きさと、ゆるしてくださった神様の愛を知るならば、私たちには自ずと、それを知る者としての生き方が湧き出てくるはずです。