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油を用意して待て

説教要旨(12月10日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 25:1-13
伝道師 新佐依子

 アドベントには、イエス様の御降誕の記念日を待つという意味と同時に、終わりの日の御国の希望を新たにするという意味もあります。しかし、この「終わりの日」というものが、どうもよく分からないという方もおられるのではないでしょうか。
 その理由の一つには、聖書には私たちが待ち遠しくなるような、御国の具体的な様子がほとんど書かれていないということがあると思います。それは、神様の国を人間の言葉で書き表すのは困難だということもあるでしょう。しかしそれ以上の理由として、私たちには本当の幸せが分からないということがあるのではないかと思います。聖書には、神様の御国では涙もなく、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もないと書かれていますから、そこにはきっと真の幸せがあるのでしょう。でも具体的に何があるのかと考えると、何だかよく分かりません。
 なぜなら、神なきこの世には真の不幸はあっても、真の幸せはないからです。私たちは真の不幸は知っていますが、真の幸せは知りません。だから、真の幸せが約束された御国のことも、よく分からないのです。
 しかし私たちは分からなくてもいいのです。御国のことが分からなくても、それを信じることができるから、それでいいのです。「信じられる」ことは「分かる」ことよりはるかに強い力を持っています。人間の頭で分かるような幸せは、それを超えるような困難に襲われたときには役に立ちません。しかし終わりの日を信じる者は、絶体絶命と思われる状況の中でも「これで終わりではない」と信じることができます。「信じられる」ことはいざというときに底力を発揮するのです。
 この力は、いざというときだけでなく、普段から私たちを生かしてくれている力です。私たちは、イエス様の血潮の恵みによって開かれた、神様との命の交わりによって生かしていただいています。その神様が、私たちに真の幸せを約束して下さっている、それが終わりの日の約束です。そしてこの約束があるから、私たちは「今日」という日を誠実に生きることができるのです。
 「今日」という日は、必ず終わりの日につながっている「神の一日」です。だからこそ私たちは、今日がどんなに辛い日であっても「これで終わるわけではない」という力に生きることができるし、今日がどれほど人から褒められる日であっても、驕ることなく神様に感謝して生きることができるのです。この信仰がなければ、私たちは今日がどんな日であろうと、その日を誠実に生きることはできません。
 ですから、この信仰は私たちの究極の生活必需品です。これを切らしたら私たちは今日を生きることができません。それほどのものなのです。今日お読みしましたイエス様のたとえ話の中の、油を用意していなかった五人の女性には、この思いが欠けていました。ともし火が消えてしまったら大変なことになるという危機感・切迫感が彼女たちにはありませんでした。だから油を用意していなくても平気でいられたのです。
 私たちはどうでしょう。この信仰を切らしてしまったら大変だという思いを持っているでしょうか。「だから目を覚まして、本当に必要なものをちゃんと見ていなさい」と、イエス様は言っておられるのです。
 御国を待つということは、今日という日は終わりの日につながる大切な一日だということを覚えて、自分に与えられた今日を誠実に、精一杯に生きることです。そのような今日一日の生き方が、御国を待っているということなのです。そしてそのように一日一日を生きることが、御国の真の幸せを味わう舌を養ってくれます。私たちの味覚は一朝一夕に出来上がるものではありません。日々の積み重ねによって、御国の幸せを本当に味わうことができるようになるのです。せっかくおいしい幸せが用意されているのにそれを味わえなかったらもったいない。そんな生き方は愚かなことですよと、イエス様は言っておられるのです。