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目に見えないヴィジョン

説教要旨(10月1日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 3:26-29
牧師 藤盛勇紀

 ダビデはイスラエルにとって理想の王でしたが、ダビデが理想としたのは「兄弟が共に座っている」というヴィジョンでした。しかしこの理想は、この地上ではいかに実現困難なことか、人類は数千年間の歴史の中で思い知らされてきました。名君ダビデも、この地上ではこの理想の実現をわずか一瞬、垣間見ただけだったと言えます。
 しかし、だからこそこのヴィジョンは私たちに天を仰がせるのではないでしょうか。詩人ダビデも、この理想をどこに見たかというと、大祭司に導かれて民が神を礼拝する光景に見たのです(詩133:2)。
 ガラテヤの信徒への手紙の御言葉は、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言います。「あなたがたは、いつかは一つとなれるでしょう」という希望や努力目標ではありません。あなた方は、すなたち私たちは、すでに一つなのです。「キリスト・イエスに結ばれて神の子」だからです。この事実は、ただ信仰によってのみ見られるヴィジョンです。
 ふつうヴィジョンと言えば、将来に向かって見るものですが、キリスト者にとってそのヴィジョンは「すでに見ている事実」であり、そして、実はそれは私たちが「すでに得ているもの」でもあるのです。
 イエス様は言われました。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)。ガラテヤ書の御言葉は、こう言います、「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。私たちがキリストに結ばれている事実、私たちが神の子である事実は、「信仰」によってすでに見ている事実です。
 エフェソ書の言葉で言えば、私たちはすでにキリストと共に天の王座に着いているのです。天はいずれ死んで行く所ではありません。神を信じない人も、「死んだら天国に行くんでしょう」くらいのことは思っています。しかし、信仰は「今」のことです。今、何を聞いているのか、何を見ているのか、今何を得ているのか、今どんな事実に与り、どんな命を生きているかです。
 ペトロも言いました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(1ペトロ1:8)。私たちは見たことのない主を愛し、目では見えない事実を、信仰によってすでに得ているではありませんか。
 このような神の子である私たちこそ、この世界の「希望」なのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8:19)とあります。神の子である私たちが、神の子としてこの地で生きる。そんな神の子らの登場を、神がお造りになったこの世界は待ち望んでいるのです。
 人間の世界の理想、政治が目指す理想は、政治によってはもたらされませんし、努力目標によって実現できるものでもありません。それは歴史が証明していますし、ダビデ王も分かっていました。
 私たちが見るべきヴィジョンは、天の現実のこの地上への現れです。主の祈りで日々、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る私たちを通して、神の御心はこの地上に現出するのです。
 ダビデは、兄弟和合のヴィジョンを大祭司の姿に見ましたが、私たちは真の唯一の大祭司キリストに結ばれて、キリストと共に生かされ、共に天の王座に着かせていただいて、神の子らとされています。「なんという恵み、なんという喜び」とダビデが霊によって賛美したあの喜びに、すでに与っているのです。このような者とされているのですから、信頼しきって、神に近づきましょう。