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歌いつつ死んでゆく

説教要旨(7月30日 朝礼拝より)
ヘブライ人への手紙 12:1-3
伝道師 山下瑞音

 最期まで自分の好きなように、自分の好きな事をしていたいというのは、私たちみんなの願いです。年をとっても人生の終わりまで自分らしくありたい。多くの人がそう思っています。しかし、なかなかそうは行かないのが、私たちの人生の現実。年を取るという事は、体は衰えて自分の思い通りの生活が出来なくなるという事です。そしてその結果、私たちは自分らしさをも失ってしまうのでしょうか。
この事を考えた上で聖書を読んでみると、聖書にはそうではないのだという事が書かれている事がわかります。そしてそのカギとなるのが、今日の聖書個所なのです。実はこの12章の直前の部分、11章はいわば聖書信仰者列伝ともいうべき個所です。そしてこの人たちを、今日の聖書個所では「証人」と呼んでいます。その「証人」が証言するのが11章の13節の言葉です。ここには彼らがどのように死んだかという事は書かれていません。ここに書かれているのは、彼らがどのように生きたかという事です。そして、この事こそ、私たちが最期まで自分らしく生きて、自分らしく死ぬためにとても重要な事なのです。
そもそも、自分らしさとは一体何でしょうか。私がなにが好きかとか、あるいはどんな人間であるという事は本当の自分らしさではありません。本当の自分らしさとはもっと深い部分にあるもので、私たちの場合、それは信仰以外にはないのです。なぜなら、私たちはいつだってとても自然に信仰の道を歩んできたからです。私たちは、嬉しい時には神様に感謝して、苦しい時には祈りをささげ、どんな時でも讃美歌を口ずさみながら歩んで来ました。これこそが、私たちの自分らしさなのです。そしてこの信仰は、絶対に失われる事はないのだという事が、聖書には書かれています。11章の信仰者列伝の最後の個所、32節から始まる部分で、聖書は信仰に生きる者の苦しみを語ります。しかし、ここで聖書が伝えようとしているのは、信仰に生きた人たちの苦しみが、いかに深かったかという事ではありません。あらゆる苦しみを経験したとしても、この人たちは信仰を抱いて死んだのだというその事実なのです。この事を、彼らは私たちに証言をしているのです。だからこの個所で、彼らは証人と呼ばれています。この人たちは信仰を抱いて死んだ。最後まで信仰を抱いて、自分らしく死んでいったのだという事を、彼らは私たちに語っているのです。
そしてこの事は、私たちも同じように、最後まで自分らしく、信仰を抱いて生きる事が出来るのだという事の証拠に他なりません。私たちの信仰も、誰にも奪う事が出来ないもの、私自身にも奪う事が出来ない物なのです。なぜなら、この信仰は私たちの外からやってきたものだからです。2節には「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめるのだ」と、3節には「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、イエス様の事を考えなさい」と書かれています。私たちはイエス様を見つめるとき、私たちはそこで信仰を得る事が出来るのです。そして私たちは、イエス様を見つめるたびに信仰が新たにされて、より自分らしく生きる事が出来るようになってきたのです。
これこそが、私たちの信仰が決して失われない何よりの理由なのです。私たちの信仰は、神様に頂いたものだからこそ、私たちがたとえどんなに弱ったとしても失われる事はありません。私たちは最後の一瞬まで、クリスチャンとして自分らしく生きる事が出来る。だから、いつも讃美歌を歌いながら生きてきた私たちは、最後まで讃美歌を歌って死んでゆく事が出来るのです。