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心の目が開かれて

説教要旨(5月21日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 24:44-53
牧師 藤盛勇紀

 弟子たちにご自身を現された復活のイエス様は、新しい時代を迎える弟子たちに、改めて聖書のみ言葉をじっくりと説き明かされました。「聖書を悟らせるために彼らの目を開いて」語られたのです。
 イエス様は私たちに「聖書を悟る」ことを願っておられます。「悟る」とは、知って理解するという知的な作業にとどまりません。むしろ単純に「聖書が分かる」と言ってよいだろうと思います。「そうだったのか!」と、思いがけない喜びが満ちます。
 そのように「分かる」には、「心の目が開かれる」経験が必要です。これも単なる知的な経験ではありません。主イエスご自身が「彼らの心を開いて」くださったように、出会いの経験なのです。出会って分かる経験、語り合いや交わりの中で開かれていく経験です。
 それは、一人で知的に探求し理解する喜びとは次元が違います。まさにあのお方によって自分が知られていると知って、心開かれ捕らえられる、嬉しい経験です。
 聖書はそのように、「生きておられるお方の言葉」として聞かれます。あのエマオ途上の弟子たちは、暗い顔をしていましたがイエス様から聖書を説き明かしていただいていた時、「心が燃えていた」ことに気づきました。暗くうなだれていた弟子たちの顔は、主に向かって上げられ、明るくされていたはずです。「そうか!」と分かった。「主は生きておられる!」と。
 私たちにも、主によって心開かれ、御言葉が「分かった」という経験があります。それは、御言葉と共に働く主の御霊によって心開かれて現れる現実です。
 高齢や病気で教会に足を運ぶことのできない方を訪ねて、共に聖餐に与ることがあります。その時、しばしば思わされるのですが、端から見たら不幸な状態、深刻な状況に見えても、そこで主の晩餐に与ろうとする方は、たいていどなたも明るいのです。死の床でもです。「開かれている」というのは、こういうことか、と思わされます。まずユーモアがあります。深刻な状況に囲まれていても、そういう状況や不自由な自分にさえ支配されないのです。
 それは、命の主であるお方から捕らえられているからでしょう。主に捕らえられている人は、たとえ体が不自由でも、実に自由です。逆に、そうでない人はいわゆる遊びがなく、深刻な状況ではまさに深刻そのものです。深刻さに支配されて、ただただ深刻なのです。復活の主を見ても、恐れおののいていた弟子たちのように、硬直してしまっています。
 しかし、イエス様ご自身が、その心を開いてくださいます。そして私たちの側も、生きて働かれる主にお応えして、自分から心を開くのです。
 病床でほとんど動けなくなった方を訪ねた時のことです。近所の子どもたちのことを思いながらおっしゃいました。「あの子たちにクリスマスのことを話してあげたい。話してあげられるように、もっと聖書を勉強したい」と。すでに目も見えなくなっています。なのに、「もっと聖書を勉強したい」と言う。いたずらっぽく笑いながら、ほとんど見えない目を泳がせながら、「もっと聖書を勉強したい」と。御言葉に聴いて、開かれる楽しさを知っているのです。
 主に捕らえられて「心の目が開かれる」とは、こういうことだと思いました。自分の足では歩けなくても、目も見えなくても、それにも関わらず、自分にも関わらず、主にお応えして歩んでいます。生ける真理に触れているのです。
 私たちは、肉の目で主を見ることはできませんが、主の霊を通して確かに主を知って、み声を聞いて、導かれ、主に結ばれています。だから私たちは、主を賛美しているのでしょう。私たちの主は、たしかに今も、生きておられるのです。