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私の内のキリスト

説教要旨(8月6日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 2:15-21
牧師 藤盛勇紀

 今年は宗教改革500年ということで、宗教改革に関する講演を聴いたり書かれたものを読む機会が多くなっています。改めて思わされることは、現代のプロテスタント教会は結局、「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」という宗教改革の原理を生かしていない、生きていないという深刻な問題です。そのことを、私はしばしば、「プロテスタント教会も結局、『信仰』を『行い』にしてしまっている」と言っていますが、それは必然的に聖書の翻訳にまで影響します。
 この手紙でパウロが言っていることは、ある意味極めてシンプルです。《律法の実行によって》ではなく、《信仰によって》だと。それでキリスト者も、「『(律法を)行う』ことによりません、『(キリストを)信じる』ことによって救われます」と言うのですが、それでは、信仰をも自分の行いにしてしまっています。「『行う』ことではなくて、『信じる』ことだ」、それはどちらもあなたの行いで「私中心」でしょう、ということです。
 「律法の実行」という言葉が繰り返されます。口語訳や新改訳は「律法の行い」となっています。どちらにしても、律法を行うと言うとき、その主体は《私》と取るしかありません。しかし原文を直訳的に言えば、《律法の》働き(業)ということです。ここでは、《律法の》働きは、私たちを救えないということを言っているのです。
 また、「キリストへの信仰」「神の子に対する信仰」とありますが、この訳も《私》中心です。「…への信仰」「…に対する信仰」と言えば、それは《私の》信仰ということにしかなりません。しかし、ここでの「信仰」は、直訳的には《キリストの》信仰、《神の子の》信仰です。
 「私がどうするか、私が何をするか」という話ではなく、「律法の業は私たちを救うことはできない」「キリストの信仰が私たちを救う」ということなのです。
 信仰は私たちの力や行為ではなく、「恵み」です。ただいただくだけです。信仰は神から来る「神の信仰」です。それを漢字で「信仰」とすると、人間の行為でしかありません。それで、「信仰」とせずに、ただ「信」や「信実」と訳されることもあります。
 神の義(救い)は、まさに「神から来る信」に現されているという福音の真理を、宗教改革者たちは再発見したのです。
 神の義は、私たち自身が自分の正しさや正義を主張するような「義」とは全く違い、罪人のためにご自身を献げてしまうという、《神の》「憐れみ」としての義です。神の義は、この《神の》憐れみ、《神の》愛、《神の》真実です。だから神の義は、徹頭徹尾、「神から来る」。だから「恵み」なのです。
 救われることは、「新しく生まれる」とも言われます。私たち誰でも皆、気づいたら人間として生きていました。自力で人間になった人はいません。新しい命に生まれることも同様です。私たちの思いや行いによるのではなく、私たちの正しさによるのでもなく、《すでに》与えられている新しい命、神の命を、いただいて生きるのです。
 すでに、キリストはあなたのために死んでくださいました。そして、あなたのために生きておられます。その命に生きるのです。だからパウロも言うのです。「生きているのはもはやわたしではありません」「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と。「私」ではないのです。
 「信仰」も「義」も神から来る。ルターはそれをローマ書の1章17節をきっかけに再発見しました。そこには、「それは(神の義は)、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」とありますが、原文はただ「信仰から信仰へ」です。
 神の「信」が私に触れて、私の「信」が起こされる。その関係が義なのです。「私が」どう、などではありません。だから私たちもパウロと共に、「わたしは、神の恵みを無駄にはしません」と言えるのです。