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一粒の麦が地に落ち

説教要旨(10月8日 朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 12:20-26
牧師 藤盛勇紀

 ヨハネ福音書ではこれまでに繰り返し、「わたしの時はまだ来ていません」といった主イエスのお言葉がありました。しかし今、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と明言されます。「栄光を受ける時」とは何のことでしょう? それはご自分が十字架で死ぬ時です。それはイエス様にとっては栄光です。十字架の死によって、神から離れて霊的に死んでいた私たちの罪が赦され、死が滅ぼされ、真の命への道が開かれるからです。ユダヤ人から見れば神に呪われた存在であった異邦人も、主イエスが呪いとなられることによって救いに入るのです。いよいよその時が来たのです。
 イエス様はおっしゃいました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。有名な言葉です。一粒の麦が地に落ち、古い命を捨てることによって新しい命が生まれる。イエス様はご自分の肉を裂き命を献げることによって、新しい命の道となり、救いの御業を完成なさいました。真の「一粒の麦」は、地に落ちて真の死を死なれたイエス様です。
 しかし、「一粒の麦が地に落ちた」というだけでは、何か漠然としています。一粒の麦はどこに落ちたのか? それは私たち自身の内です。「あのお方死は、この私のためだった」と受け取ることなしには、一粒の麦も十字架もよそ事、ひと事でしょう。
 ステンバーグという画家がスペインの舞姫を描いていました。モデルの少女は十字架のキリスト像に目を止めてたずねます。「これはどういう人ですか?」。「これはキリストだ」。「なぜ殺されたのですか?よほど悪いことをしたんでしょうね」。「いや、非常によいことをしたのだ」。びっくりする少女に、ステンバーグはイエスがどういうお方なのかを話してやりました。彼にとっては分かりきった話で、特別な感情もなく語ります。しかし少女にとっては大きな感動でした。「先生はこのお方をとても愛しておられるんでしょうね。あなたのために命をお捨てになったのですから」。
 この一言が彼の胸に突き刺さりました。「このキリストの愛を人々に知らせるために絵を描こう」。それから200年後、その絵は領主の子ツィンツェンドルフの心を打ち、彼は一切を捨ててヘルンフート兄弟団という信仰共同体の指導者となります。
 イエス様は、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われます。一粒の麦の死に、私たちを結び付けようとしておられます。一粒の麦を自分の内にいただいた者は、自らも一粒の麦となることが望まれているのです。
 一粒の麦となるとは、死ぬことですが、驚く必要はありません。私たちは皆確実に死ぬのですから。何のために生きて、死ぬのかです。私たちは、キリストに結ばれて生き、自分も一粒の麦として実を結ぶものとされるのです。パウロも言っています、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)。
 「わたしに従え」と聞くと、何か強制的なものを感じる人もいるでしょう。自分の意志、選択の自由はどうなるのかと。
 しかし、神から離れた人間は、どこへ向かって進めばよいのかも分からないまま道を行く遭難者です。レスキューが必要なのです。遭難者を見つけたレスキュー隊員は言うのです。「もう大丈夫だ。私について来なさい」。その時、「ついて行くかどうか、私には選ぶ権利があります。私の自由です」などと言う人がいるでしょうか。
 助かる見込みもなくただ死に行く私たちのために、主が代わりにその死を引き受けてしまわれました。それによって、私たちは、死から命へと移されたのです。そうして真の一粒の麦となられたお方が、「大丈夫だ、しっかりしなさい。わたしに従って来なさい」と言われるのです。