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主と共なる食事

説教要旨(5月7日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 24:28-43
牧師 藤盛勇紀

 この箇所の前半は、エマオ途上の二人の弟子たちが復活されたキリストと出会う、有名な話です。主が十字架につけられてから三日目の午後、暗い顔をして歩いていた弟子たちに、いつの間にかイエス様が共に歩き、聖書の話をしてくださった。弟子たちはその人がイエス様だと気づかないまま、夕食の席に着きます。そこで主がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、二人の目が開けて、その人がイエス様だと分かったというのです。
 これはまさに私たちの経験だと思わされる出来事です。私たちが礼拝で共に祈りを捧げ、裂かれたパンをいただき、身をもって主イエスを味わう聖餐です。
 この出来事は、さらにその先があります。二人の弟子たちは、すぐにエルサレムにとって返します。すると、他の弟子たちも集まっていて、みな驚きながら復活の主と出会ったことを話し合っているのです。
 すると、その弟子たちの真ん中に、またいつの間にか主イエスが立っておられました。その時、夕食の準備がされつつあったようで、イエス様は、そこに差し出された焼き魚を食べられたというのです。
 このエルサレムでの食事の場面は、非常にユーモラスです。ちょっと間抜けな感じがするくらい滑稽です。どの弟子たちも鈍感で、イエス様を見ていてもなかなか気づかないとか、亡霊だと思って震え上がる、というおかしさもありますが、この場面の面白さは、鈍くて愚かな弟子たちに対して、イエス様が必死になっておられる様子です。
 恐れおびえる弟子たちにイエス様は、「ちょっと待て、わたしをよく見ろ。まさしくわたしだ。触ってもいい。亡霊には肉や骨はないだろう。ほら、見てみろ。手には傷もある。足だって、ほら、ここにあのぶっとい釘を打ち込まれたんだから」。イエス様は、何とか弟子たちに分かってもらいたい。ところが、それでも弟子たちはまだ半信半疑です。彼らは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」とあります。これも、想像したらおかしな顔です。顔の半分は喜んでほころびそう。でも、もう半分は、「えっ、まさか」と、ひきつっている。弟子たちの鈍さも相当です。主が体をもって甦ったということを分かろうとしない。
 そこで、イエス様は思いつきます。「ここに何か食べ物があるか?」目の前で何か食べて見せれば、さすがに幽霊だとは思わないだろう。
 そこに「焼いた魚」が差し出されました。煙と臭いが漂ったかもしれません。その焼き魚をイエス様は手に取ると、ムシャムシャと一人で食べ始められました。「私には肉体があるんだ。幽霊がこんなふうに魚を食べるか? ほら、見てみろ。モグモグ」。
 生活臭がプンプンするところで、ふだん弟子たちが食べている焼き魚を、むしゃむしゃと食べて見せる。「ここに確かに私がいるんだ」と、鈍くなっている弟子たちに、まさに体をもって証しされるのです。
 あのエマオでの整えられた食卓は、感動的な食事でした。このエルサレムでの食卓は、まだ整っていない食卓。しかもイエス様の、少々お行儀の悪い食事。どちらも私たちに必要なのです。
 私たちは教会の礼拝で聖餐に与りますが、生活臭漂う日常に戻ると、あの弟子たちと同じように、主がそこにもいてくださることを忘れてしまうのではないでしょうか。しかし、その日常生活の真ん中に、主は立って下さいます。そして、「ほらよく見てごらん。あなたの内に注いだ霊の目で、信仰の目で見なさい。私はたしかにここにいるだろう」と語ってくださっているのです。
 イエス様は焼き魚を取って食べられるほどに、私たちの生活のただ中で、ご自身を証ししてくださいます。だから、私たちの信仰は、そのような生活のただ中の信仰であって、信仰とは生活なのです。