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人によらず、神により

説教要旨(5月28日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 1:1-5
牧師 藤盛勇紀

 この手紙の書き出しから、パウロとガラテヤの教会との間の、ある緊張関係を読みとる人もいます。本文が始まる6節には、「わたしはあきれ果てています」と、いきなり挑戦状を叩きつけるように書き始めていて、かなりスリリングです。
 「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」。私たちとキリストとのこの関係、これをよもや忘れたのではあるまい、とパウロは問うています。これを忘れたら、「今の悪の世からの救い」も何もないのです。
 「悪の世」とは、たんに道徳的に堕落した世界のことではありません。この手紙の文脈から言えば、「律法」という基準によって生きる世界です。「何をしたか、何ができるか」という行いによって、人を判断し、価値を決め、評価する世界、そうした生き方のことです。自分自身のことも、「これをしているから、私は神の前に出られる。これができるから、神の前に正しく生きている」と、自分の行いを基準にして、神との関係も考える。これは、悪人や堕落した人というより、むしろ善人の生き方です。そうした基準を根拠に生きる世界を、パウロは「悪の世」と言うのです。その悪さは、邪悪さというより、悩みや恐れや思い煩いであって、平安の無さです。
 「あなたは何をしてたか、何ができるか」、それによって、高ぶったり、自信を喪失して失望したり、時には、「これができないのでは、生きている意味がない」と絶望する。そうした功績と誇りと名誉、裏返せば、脱落と絶望と不安の世界、人間が人間のことを決定するシステム、ノルマの世界。
 誰でもいずれは課題やノルマから解放される時がきます。定年になるとか、思いがけず病に襲われるような想定外の出来事。そこではノルマもプレッシャーもなくなるかと思ったら、何もできない自分はいったい何者なのか分からなくなってしまう。
 神の御心は、そのような世から「救い出そう」とすることだと、パウロは言います。律法やノルマによる不安の支配のもとに生きるのでなく、キリストのもの、神のものとして、恵みと平安の内に生きること、神のご意志を受けて、それに自由に従って生きること、神のご計画に参与して生きる。それが神の御心なのです。
 そのために、キリストが「わたしたちのために」献げられたというのです。私たちは何か要求されて生きているのではない、神の最も良いものを与えられて、それをいただいて生きるのです。
 この恵みの現実は、人が定めたノルマや人の評価によって現れはしません。私たち自身の考えや思いや行いによるのでもありません。「わたしたちの神であり父である方」から来る恵みによるのです。だから私たちの生きるところ、立つべきところは、人によるのでない、このキリストにある恵みなのだ、というのです。「人々からでもなく、人を通してでもなく」です。
 あなたはいったい何にしがみついているのか、手を放してみなさい、とパウロは語るのです。人間的なものをいったん手放したとき、神が与えて下さったものが現れてきます。イエス様は「捨てよ」と言われました。主を信頼して「捨てる」ことによって、主から「得る」のです。
 私たちは、人の最たる者である自分自身を手放すとき、人によらない上からの恵みと平安が、私たち自身を通して現れてきます。それは、キリストが私たちの内に生きてくださっているからです。
 人からのもので生きようとしなくてよいのです。人の言葉や思い、世の思想や評価によって決定されなくてよいのです。この恵みの事実が、私たちの信仰による歩みの第一歩なのです。