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喜べ、自由な者よ

説教要旨(12月17日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 4:21-5:1
牧師 藤盛勇紀

 「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思う人たち」とパウロは問いかけます。「律法」とは、人間の生き方をも象徴します。要求された条件を満たして初めて生きることになるような生き方、ノルマや条件を満たすために汲々とした奴隷状態、そうした人間の姿です。
 しかし、律法それ自体が問題なのではありません。イエス様ご自身、「天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われましたし、パウロも実は律法を非常に重んじています。「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」と問います。つまり、律法の言うことを聞けと言っているのです。
 そして、アブラハムの二人の妻とその子らのことを喩えとして語ります。女奴隷ハガルと正妻のサラ、そしてそれぞれから生まれた息子のイシュマエルとイサクです。
 アブラハムとサラには、高齢になるまで子がありませんでした。そこで女奴隷ハガルを側女とし、アブラハムの子を産ませます。ハガルとその子イシュマエルは、「跡継ぎが欲しい」という人間の欲望と人間の計画、人間の力の象徴なのです。
 アブラハムとサラには、もう子どもなど生まれる希望はありませんでした。ところが《神の約束》によってサラにイサクが生まれたのです。サラと息子イサクは、人間の思いや力によってではなく、神の恵みの約束によって生きることを象徴しています。そして、このことがまさに「律法」に記されている、この事実が大事なのです。
 もし、「隣人を自分のように愛しなさい」との戒を、自分の力で守らなければならないとしたらどうでしょうか。たしかに誰もが隣人を愛して生きられたなら、争いも戦争もない理想社会が実現しているでしょう。しかし、「愛し合いましょう、共に生きましょう」という美しい言葉が、《実際に行われるべき要求》となったとき、人間の限界を思い知らされます。ハイデルベルク信仰問答も、神の戒めについて「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」と問いますが、その答えは「できません」、です。
 しかし、ここからが大事なのです。私たちは、神が求めておられる戒めを守ることができない。そうすると、「私は神の裁きを受けるのか」「何か罰のようなものが当たるのではないか」、そうした恐れが起こってくるのではないでしょうか。
 そんな恐れを抱いていることが律法の「奴隷」ではないか、というのです。奴隷にとっては、主人の要求や命令に反することは罰に直結します。だからどう命令を守れるかが生活の目的になってしまいます。
 そこで、ハガルとイシュマエルに対するサラとイサクの存在を思い起こすことが大事なのです。つまり、《人間が思い立った知恵や力によって切り開く道》を歩むのでなく、《神が約束なさったものを、受け取りながら生きる道》です。神の約束とご計画を信じて、恐れなく神からいただいて生きること、恵みによって自由に生きることです。
 27節に、イザヤ書54章の言葉が引用されています。「喜べ、子を産まない不妊の女よ」。不思議ですが、慰めに満ちた言葉です。私たちは、自分が真の人間として生きるに必要なもの、救いのために必要なものを、自分で産み出さなくてよいのです。必要なものは、神から来るからです。
 クリスマスは神ご自身の到来です。救いと命は神から来ます。あなたが命を得るために、あなたがしなければならないことも、あなたにできることも何一つありません。あるとすれば、ただいただくことだけ。つまり、恵みによって生きることです。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。