HOME | 説教 | 説教(2017年度) | 真理の霊が来る

真理の霊が来る

説教要旨(6月4日 ペンテコステ礼拝より)
ヨハネによる福音書 14:15-24
牧師 藤盛勇紀

 聖霊降臨日(ペンテコステ)の出来事については使徒言行録第2章に記されていますが、イエス様ご自身が聖霊について詳しく語られたヨハネ福音書の御言葉に聞きたいと思います。14章から16章は、イエス様が捕らえられる直前に弟子たちに語られた、「決別説教」と呼ばれるお言葉です。
 主は、あなたがたに遣わされる「弁護者」である聖霊が、「永遠にあなたがたと一緒にいる」と約束され、「この方は真理の霊である」とも言われました。
 「真理」と言えば、6節にイエス様の有名なお言葉があります。「わたしは道であり、真理であり、命である」。真理とは、いつでもどこでも、どんな状況でも変わらないものですが、主ご自身がそれだというのです。数学的な冷たい真理ではなく、いつでもどこでも、どんな時にも、私たちの道であり、命である真理。私たちを生きる者として存在させ、意味を与え、支え、方向を示し、導いてくださる、生きた真理です。
 この聖霊が永遠に私たちと一緒におられるなら、いかに心強いことでしょうか。私たち自身が弱ってしまっても、このお方はいつも私たちと共にいて、万事が益となるように、備えてくださいます。たとえどんな時でも、慰められます。だから、この真理の霊は、「慰め主」とも言われるのです。
 ただ、弟子たちには、イエス様の身に何かただならぬ事が迫っているという死の予感がありました。しかし主は言われます、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。
 主はこの後捕らえられ、殺されてしまいます。しかも弟子たちにも裏切られ、多くの人々に見捨てられ、嘲られながら死ぬのです。その意味では、主の十字架の死は、人間の希望が潰えた死、主イエスと弟子たちとの断絶の死でした。何の希望もない、慰めようもない別れでした。
 弟子たちは、どう生きていけばよいのか分からなくなります。そもそもこんな仕方で主を裏切った自分は、生きている価値などあるのか、それさえ不明となります。
 しかし、主は言われます、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。神に背く私たちが生きるのは、主が生きておられるからです。私たちの道であり、真理であり、命であるお方が生きておられる、だから、私たちは生きるのです。
 主イエスの死によって、主と弟子たち、主と私たち人間は完全に切り離されてしまったように見えた。けれども実は、その逆だったのです。イエス様の十字架の死によって、それまでの人間が全く知らなかった「真理」を知って、生きることになったのです。真の「慰め主」が与えられた。そういう仕方で、主を見ることができるようになったのです。
 弟子の問いに対して、主は答えられました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む」。主を愛し、そのお言葉を守る人に、父なる神と御子イエスは行って、「一緒に住む」というのです。味わい深いこの言葉は、英語のポエムの語源にもなった非常に豊かな意味の言葉です。創造する、建てる、芽生える、実を結ぶ、備える、語る、命じる、守る、約束を行う、歩む、実に様々な場面に用いられる言葉で、生きることの全般にかかわります。そのように、主ご自身が、いつでもどこでも、積極的に私たちと共に生きるというのです。
 だから、聖霊を受けた私たちの生活は、生ける神のみ業そのものになるのです。このお方が生きておられるので、私たちはいつでもどこでも、生きるのです。