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あなたがたは今は神の民

説教要旨(11月26日 朝礼拝より)
ペトロの手紙一 2:9-10
牧師 藤盛勇紀

 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」。これは、洗礼によってキリストに結ばれ、神のものとされた全てのキリスト者のことを言っています。申命記では、「宝の民」と言われています。そして、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」(7:6-8)と。つまり、あなたには何か特別な能力や資質があったわけではない。むしろ数は少なく貧弱で、取り上げる所などなかった。にもかかわらず、神の愛と約束ゆえに、「あなたは宝だ」と言われているのです。
 であれば、選ばれた者は自分を誇ることはできませんし、意味がありません。私たちは、私たちの主なる神を誇るのです。神はこのような私を愛し、宝とし、求めてくださる。その神を誇るのは当然でしょう。そして、神のものとして生きたいと思うのが本当でしょう。
 「王の系統を引く祭司」とは、神の宝とされた者たちがどう生きるのかを示しています。私たちは全て祭司だというのです。人に対しては、神から遣わされた者として働きます。神に対しては、人のために執り成す仲介者です。
 宗教改革者のルターは、主にこの御言葉から「万人祭司(全信徒祭司)」ということを強調しました。いわゆる聖職者だけが祭司なのではなく、全ての信徒がすでに祭司である。この「万人祭司」が、「聖書のみ」「信仰のみ」と並んで、宗教改革の3大原理と言われて来ました。祭司の務めは全信徒に主から直接与えられているであって、それは9節後半にあるように、「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。
 これを一言でいうならば、「私は救われています」という事実に他なりません。この救いの確かさは、宗教改革の時代にまさに「聖書のみ」に立ち帰り、「信仰のみ」によって義とされ(救われ)たこと、まさに「恵みのみ」の事実です。
 「暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れてくださった」とありますが、キリストの恵みを信じて受け入れた者は、「なんということだろうか」と思います。私はこれほどに愛され、恵まれていたのかと。だから「驚くべき光」なのです。人が与えられるものでも、人間が生み出せるものではない。だから、「広く伝える」のです。
 「暗闇から、驚くべき光へ」という変化を、ペトロはこう言い換えます。「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」。「憐れみ」とは、気の毒に思うとか単なる同情のことではありません。むしろ、人間の情からすれば、とうてい情けなどかけられないはずの者を憐れむ、ということです。人間の憐れみとは違うのです。ペトロが引用しているイザヤ書43:21にこうあります。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」。
 私たちが造られ、神の民とされ、祭司とされたのは、実に、神の栄誉を語るため、神の栄光を現すためなのです。大胆に言えば、「こんな私ですが、私を見てください。神がどのようなお方かが分かるはずです。神の愛と憐れみが分かるはずです」と。私たちは貧弱ながらも、神の御栄を現す存在として、まさに「神に似せた」「神のかたち」に造られたのです。
 そのような者として生き、生かされるとき、私たちは本当の自分に生きることになります。そして本来の人間の姿を現し、自分の最高のかたちで用いられるのです。