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今週の説教

見えるようになれ

説教要旨(4月30日 夕礼拝より)
ヨハネによる福音書 9:1-17
牧師 藤盛勇紀

 イエス様は通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。「見かけられた」と、何気ない言葉ですが、この時のイエス様の眼差しが特別だったことを、弟子たちはすぐに感じたようです。だから、すぐに弟子たちは尋ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。
 自分たちは目が見えるのを当然だと思っている。しかし、なぜか生まれつき目の見えない人もいる。もちろん本人のせいではないだろう。なのに、生まれつき目が見えない。このような人生の不条理をいったいどう理解したらよいのか。この人が、こうなってしまったのは、なぜなのか。
 弟子たちは問います、「だれが罪を犯したからですか」。今の苦しみは罪に対する神の罰だといった発想は、現代の日本にも普通に見られます。いわゆる因果応報です。
 こうした問いに対して、イエス様は何とお答えになったか。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
 「罪を犯したからではない」。これは、この人やこの人の親は罪を犯さなかった、ということではありません。「罪を犯した」という事実を探ろうとしたら、誰にでも思い当たる節はあります。あの「義人」と呼ばれたヨブでももちろん例外ではありません。ヨブは無垢で心は神に向いていましたが、その信仰には穴が開いていました。そして、ヨブの友人たちは友人たちで、「お前の罪が、こんな罰を招いた」と、因果応報的な考え方でヨブを責めます。
 罪を指摘されたら、因果関係を問われたら、誰だって言い逃れはできません。私たちも、「あれをしたから、今こうなった」と考えます。そして、自分が今こうあるのは何が原因か、誰のせいかと、いつも遡って原因を探し、犯人探しをする。ヨブも、幸せのただ中で「罪を犯したかもしれない」と恐れて、宴会をするたびに予め犠牲を献げ、罰を逃れようとしていました。
 イエス様は、「そうではない」と言われるのです。「…をしたから」「…だったから」と、「過去」の罪から「今を」生きるのではない、と。私たちには、過去の何かが原因と思われる苦しみや悲しみがあり、不意に運命の打撃を受けて、今もその一撃が効いて、心や体がうずく、というようなことがあります。しかし、そんな取り返しのつかない過去に捕らわれて、悔いて生きる生き方を、イエス様は終わりになさったのです。
 私たちの魂にこびり付いて、取り消し不能な何か、痛恨の極みである私たちのあらゆる罪、その一切の負債を、主イエスは背負って十字架で滅ぼされたのです。「罪の結果を負って生きる」、そんな考え方も生き方も、キャンセルされたのです。
 主イエスの死によって、完全な贖いが成し遂げられました。つまり、取り戻せないものが取り戻されたのです。だから、私たちは、もはや「過去から今」を決められて生きる者ではなく、今生きておられる主が、私たちを通してなそうとしておられる業に向かって、生きるのです。
 ここでは、目が見えない人が見えるようになりました。しかしそれは、ただ病が治ったということではないのです。主のお言葉があった。意味は分からなかったけも、信頼して従った。すると、見えるようになった。主が見えるようにしてくださった。単純なことです。
 私たちが見るべきものは、死ぬべきこの身に、神の真実が現されること、神の御業が現されることです。キリストの命が私に触れて、現れ出るということです。「それを見よ」と、「それが見えるようになれ」と主は言われる、願っておられるのです。他でもない主がそう言われるから、それを聞く者は、見えるようになるのです。