HOME | 説教 | 説教(2017年度) | 神を知る時

神を知る時

説教要旨(10月22日 朝礼拝より)
ガラテヤの信徒への手紙 4:8-11
牧師 藤盛勇紀

 キリスト者は主イエスが生きておられることを信じて、生ける神を礼拝しています。祈りも、生きておられる方に面と向かうように語ります。これは世の人々から見れば異様なことで、非合理的なことでしょう。しかし、神がどういうお方かを知ったキリスト者にとっては、それが自然で理にかなっていますし、礼拝も合理的な行為です。それまでは不可解だったことが、まったく明らかな、理の当然の道理、となります。
 ところが、それがまた「逆戻り」してしまうことがあります。古い理性への逆戻り。ガラテヤ教会の信徒たちにも、その危険がせまっていたようで、パウロは、「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻り」するのか、と問います。
 「逆戻り」といっても、なにも遠い所へ戻って行くわけではありません。この日本に生きる私たちも同じですが、ふだん生活している世がキリストを拒否し、生ける神に背を向けています。周囲に満ちあふれている様々な宗教や思想、世界観や人間観、価値観や生活観の中に、ただ身を委ねればそれでおしまい。造作もないことです。
 ガラテヤの信徒たちの具体的な問題として「日、月、時節、年などを守っています」とあります。現代の日本人も全く同じです。様々な迷信に捕らわれ、最新の文明の利器を用いて占いに囚われ左右され、会ったこともない人に心も体も捕らえられ、騙され縛られ、操られています。持っているモノは最新でも、新しい内容の無い現代人の姿は、「神々の奴隷、諸霊の支配の下に生きている」姿そのものでしょう。
 いつの時代も、人間は神を求め、神を知ろうとしています。でも、人間の側からどれほど神を求めても、何千里を行こうとも、そして神を知り得たとしても、それは結局、人間が作り出した「宗教」に過ぎません。人間の要求、願望、「こうしてほしい」「ああなってほしい」「神はこうであるべきだ」「神はこうであるはずだ」。すべて人間の作り出したものです。
 こうした人間の姿は、本当の親を捜し続けている子供のようなものです。親を捜している子は、ずっと不安です。「この人がお母さんじゃないか」「あの人はお父さんかもしれない」「この人について行けばいいのだろうか」と、不安の中に尋ね続けます。
 しかし、子供が本当の親を見出すことができるのは、本当の親が自ら、「私がお前のお父さんだよ」と名乗り出て、子供を抱いてくれる時ではないでしょうか。その時から、その子は本当の親と共に生き始めます。私たちを造り、私たちを愛して命の霊を吹き込んで下さり、私たちを子としてくださったお方と出会ったらなら、そこで初めて、宗教が不要になります。
 実は、私たちの本当の神、真実な父は、すでに私たちを出迎えて下さっています。イエス・キリストにおいてご自分をさらけ出し、自分の命を捧げて、「私がお前の父だ、お前は私の子だ」と言って下さっています。神はすでに、私たちのところに来ておられるのです。預言者イザヤも言いました。主なる神は語り続けておられる、「わたしはここにいる、わたしはここにいると言った」「絶えることなく手を差し伸べてきた」と。
 私たちは、自分から探し求めて神に到達することはできませんが、神の方が、永遠を超えて私たちへと来て下さっています。私たちはただ、それに気づかされるのです。真の親を、聖霊が教えて下さっています。だから、静まってその声を、その証しを聞くときに分かるのです。神が分かる。いや、パウロが言うように、「いや、むしろ神から知られている」と分かります。
 聖霊が私たちに主イエスを証しし、主イエスの父を示して下さったなら、神を捜し求める私たちの旅は、そこで終わりです。生きておられる主と共に生きる道が始まっているのです。