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主は生きておられる

説教要旨(4月23日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 24:13-35
牧師 藤盛勇紀

 イエス様が復活された日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。歩きながら、イエス様とその周囲に起こったことを話し合っていました。すると、いつの間にか「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」というのです。ところが不思議なことに、弟子たちは、その人がイエス様だと分からないのです。イエス様は二人にお尋ねになります、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。そこで二人は、「暗い顔をして立ち止まった」。
 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。しかし今ではただの思い出。期待と希望は木っ端みじん。「もう今日で三日目」。そう言っていながら、イエス様が「人の子は殺されて、三日目に甦る」と繰り返し予告しておられたことを忘れています。他の弟子たちも皆同じでした。もう日が暮れようとしていますが、彼らの心も途方に暮れ、暗い顔で肩を落とし、もとの生活に戻ることくらいしか考られないのでしょう。
 彼らは「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。主が生きておられることが分からない失望、主はいないと思う信仰の無さ。それが人を暗くするのです。
 イエス様は言われました、「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち・・・。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。
 イエス様は、聖書は私のことを語っているではなかったか、と教えられたのです。十二弟子を始め、何万、何十万の人々が、直接イエス様の教えと御業に触れたでしょうか。しかし誰一人、このお方を理解した者はいませんでした。弟子たちも聖書の言葉を学び、理解したはずです。しかし結局、主イエスが分からないのか。それは、自分の思いの中に沈んでいるからです。一生かかって聖書を学んでも、主が生きておられることは分かりません。
 二人の弟子たちが、イエス様が分かったのは、ようやく夕食の席です。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
 イエス様が食卓の主のように振る舞われる。主はいつものように、「アッバ、父よ」と呼びかけられたでしょう。父よ、感謝します。そしてパンを裂いて渡される。その時ようやく彼らは、主が分かりました。
 しかし「その姿は見えなくなった」。もう肉の目で見ることはどうでもよいのです。イエス様が生きてここにおられ、命のパンを与え、働いておられる事実。それは、肉の目では見えなかったのです。
 「主は生きておられる」。それが分かれば、人生のことも、世界のことも、俄然話が変わります。意味が変わる、光が変わる、見え方が変わります。なぜ、心が燃えるのか。それは、主ご自身が、私たちの心に直接証しをなさるからです。
 この二人の弟子は、「時を移さず出発して、エルサレムに戻った」。もう夜です。なにも今から行かなくてもと思われる時刻。しかし、主が生きておられるなら、今頃も今さらもありません。
 「主が私たちに語っておられた時」、あの時、もう終わったと思い、うなだれて暗い顔をしていた。しかし、主が語っておられた時、確かに心は燃えていたではないか。それが分かったのです。彼らにとっては、あの時の過去さえ変わったのです。そして今も燃えているではないか。もう、もとの生活を立て直すとか、何か頼るものを探すとか、そんなことではない。「主が生きておられる」、この事実から生きることが、彼らの新しい人生となりました。